⑭富岡銭斎「三教合一」観の変遷一一『三老吸酢図』の再解釈一一研究者:総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程十九世紀の後半から三十世紀の初頭にかけて,日本の文人画が西洋画風の影響が画壇全体に及ぶにつれて衰相を示したなか,文人画の「最後の巨匠」と賞賛される富岡識斎(1837〜1924)は全く東洋的な教養から出発し,中国古代文人の憧れである読書三昧の生活を送りながら,独創的な画風〔図1'2〕によって,文人画の大成を為した。一方,彼の画風は西洋においても先端に立つ後期印象派の画風と一脈通じることで,世界的に共鳴を起こし,銭斎の美術史上の地位が西洋絵画におけるセザンヌのそれと同じであるという評価の声もあがった(注1)。このことは十九世紀末から二十世紀にかけて西洋文化の取り入れに焦る日本の美術界及ぴ日中文芸の諸分野に東洋文化の優越性を表明するメッセージを送ったと言っても過言ではないだろう。従って,富岡銭斎のこのような独特な画風の背後に,その源となる東洋的な教養とは何か,これを究明することは文人画という一分野に限らず,美術界に鍛斎を位置づける場合に,また絵画の発展における東洋と西洋の問題を考える場合において,大きな意義を持っている。従って,本論文はこのことに視点を置き,今まで論じられた「三教合一Jという鍛斎の思想的特徴を巡って,その変遷と,画風との関係を明らかにすることを主な目的とする。銭斎は画家として非常に特別な存在である。第一に彼は一生画家と呼ばれるのを嫌い,学者,儒者だと自認していた。第二に鍛斎画は非常に教訓性が強いことがあげられる。絵は世間を教化するためのものだと,識斎は常々主張していたのである。また,鍛斎画にもう一つの重要な特徴があり,それは,鍛斎画の大半には長文の賛が書かれており,しかも中国の古典からの引用が圧倒的に多いことである。銭斎は常に次のように語っていた。「わしの画を見るのなら先ず賛を読んでくれ。」(注2)。これらは,識斎が主張した通り賛を読んで絵を分析することが,鍛斎画を理解する上で極めて重要な手がかりであることを提示している。ところが,従来の織斎論では殆ど絵画論から出発したもので,賛文が見落とされているという欠点がある。1969年から1990年にわたって鍛斎研究所によって編纂された雑誌『銭斎研究』は,鉄斎の主な作品二千余点について賛丈の解読が行われた,賛文を取り扱う最も基礎的な研究材料である。そ戦暁梅178
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