鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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の他の研究論文,例えば野中吟雪氏の「鍛斎画賛考」(注3)I富岡銭斎の画賛J(注4)が挙げられるが,賛文を主に書として取り扱うものであり,賛丈の内容を理解した上で画を論じるような論説は殆どないのが現状である。従って,本論文は『銭斎研究』の賛丈解読に基づいて,作品の賛丈の中から浮上する鍛斎の思想的内容と画風との関連性を検討する方法によって,本論文の問題意識を解明していきたいと思う。富岡識斎は博学な芸術家であり,生涯儒者を以て自認した。晩年の織斎はとくに自分の儒学的教養を強調して次のように語った。なにぶん神社に仕える身であるから,国学をおもに修めて,野之口隆正等の説を聞き,ついで漢学は岩垣月洲氏について教えを受けた。その後,王陽明の学を信じ,久我家の諸大夫春日讃岐守,この讃岐守の名は裏,号はi替庵といい,陽明学では当時第一流の人物で,薩州の西郷吉之助,肥前の島団右衛門(義勇)をはじめ,諸藩有為の人物が多くその門に入り,また梁川星岩,頼山樹などとも常に往来していた。後に幕府の嫌疑を受け,安政戊午の年召捕となり,鶏龍で江戸城へ護送されたが,なかなかの豪傑であった。私はこの潜庵について陽明学を修め,それより諸名士と交際することとなり,また儒家梅田源次郎(雲浜)の家にも行って講義を聞いた。そのほか,名家といえば片っ端から訪問したが,その中でも最も潜庵の学識と,貫名海屋の書画に服して,内々で画を稽古した。(注5)織斎はこの談話のなかで自分の経歴と国学,i莫学,儒学を語るなかに,特に陽明学者の春日潜庵を賞賛し,彼に師事したことを強調した。陽明学は儒学の一派で,中国明代の王陽明(1472〜1528)によって創立され,それまでの儒学の主流である朱子学と対立した学説である。個人の心の主体性を重視する「心即理J,「致良知jの理論と「知行合一」の実践論によって特徴づけられている。銭斎は少年時代から朱子学・陽明学・老荘・仏教・神道を融合した石門心学の家学の薫陶を受け,広く儒・{弗・道・神道を渉猟した。このことを証するかのように,識斎の賛文,印文に「修得三教報答四しば見られる。しかし,彼は到底思想家ではなく,彼の思想を一つの体系として纏めることはできない。識斎の思想について広く論じられた中,最も全面的にまとめたのは次に引用する銭斎研究の第一人者である小高根太郎氏の説である。思J(私は三教を修め,父母・衆生・国王・三宝の四思にむくいる)という言葉がしば179

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