鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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三教合一,または三教一致の説は儒教・道教・仏教の三教が,根本は『~.Jに帰す識斎の思想、は大筋からいって石円心学の流れをくむものだが,彼の神道思想、は本居宣長・平田篤胤の国体神道と儒教理論をもって神道を解釈する山崎闇斎の垂家神道を混融したものであった。儒者としては知行合ーを説く王陽明を信奉したが,↑生理学を立てた朱子を始め宋代の学者をも尊敬していた。仏教では慈悲を行じて衆生を救うという大乗の思想、に共鳴し,自ら画をもって法を説く在家の居士をもって任じていた。老子・荘子,乃至道教からは心を清浄にし,俗世を超越し,宇宙の根源に帰り,不老長生を保つことを学んだ。(注6)猶,「三教jの内容について,小高根太郎氏は次のように解釈した。「一般に三教とは儒教・仏教・道教を指すが,織斎は道教思想、にも通じていたとはいえ,彼の場合には,儒教・仏教・神道をもって三教としたと考えられる」(注7)。従って,小高根氏は晩年銭斎が,呉昌碩に「蔓陀羅窟jの肩額を書いてもらい玄関にかかげて「これはマダラクツと読むのじゃ。人は一色ではいかん。いろいろな色が入り交じってマダラになっているのがよいのじゃ。Jと語った言葉を挙げ,「鍛斎の思想、は儒教・仏教・神道など,あらゆる東洋思想をこね合わせたマダラの思想、であるJといい,「これらの思想、は,互いに矛盾する面もあるが,織斎はそれを大らかに,あるいは無頓着に看過し,それらの根底に共通する天地自然の理を直観し,造化の妙を感得していたのである」(注8)とまとめた。小高根氏はこの言葉を通じて,各思想、の根底が共通していることと,鍛斎がそれを直観したこと,即ちそれは鍛斎が三教合ーの思想、の特徴を持っていることを提示している。るという主張で,中国南斉の張融・周願が説いたのが最も早い時期のものである。日本は老荘思想・道教の受容には積極的でなかったため,三教一致は,神・儒・仏の三教が『ー』に帰することを主張するために応用されることになり,また,鍛斎の家学である石門心学も神道を基本とした三教一致を教えた。この三教一致の思想、を表す有名な画題として,「三老吸酢J,「三聖図」,「三教図」などが挙げられる。「三老吸酢」の面題は,蘇東坂・黄山谷・悌印の三人がお酢を嘗めている場面を描くもので,次の「書三酸」の故事から由来するものである。宋の文豪蘇東坂と彼の友人黄山谷は,ある日金山寺に備印和尚を訪ねに行った。悌印は上等な桃花酸を出し,180

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