緒に味見しようと誘った。三人で一緒に酢を嘗めて,共に眉を寄せたという。黄山谷は道教の人,蘇東壊は儒教の人,f弗印は仏教の人であり,三人三様に眉を寄せるにしても,その源となる桃花酸は同じものという点によって,三教の説くところは異なるが,帰原は同じであるということを意味する。また,この故事に及ぼされてさらに孔子・老子・釈迦の三聖人が酢を吸う「三聖吸酢図」になったり,単なる孔子・老子・釈迦を一画面に描く「三聖図」または「三教図」になったりする。数から言えば,鍛斎の尼大な作品群のなかで,これを題材にする作品は極めて少ないけれども,「三老吸酢」の画題は四十代から八十代まであり,特に八十代の作品は,主に鍛斎の「三教合一」の思想的特徴を反映する代表作として紹介されてきた。次にこの「三老吸酢Jの画題に絞って,『餓斎研究』に載っている餓斎の四十代,五十代,八十代の三つの作品を通じて,彼の「三教合一」の思想、を窺うことにしよう。一忠実な再現一一四十代作『三聖人図』の場合四十代は銭斎の長い妻術生涯のなかでは初期ともいえる時期で,主に明清風の文人画を手本にして,画風に繊細秀麗の特徴が見られる時期であった。また,銭斎の四十代と言えば,四十一歳の年に大和石上神社少宮司に任命されたり,四十二歳の年に正七位に叙せられ,さらに大鳥神社宮司に任命されることによって,かねてから抱いた神社復興の志を積極的に遂行出来た時期であり,四十六歳で帰洛するまで,政治的な生涯において最も栄光的な時期であった。また銭斎が四十六歳の時に兄伝兵衛敬憲が亡くなったことで,病弱の母の面倒を見るため,やむを得ず京都に帰り,三十余年にも渡る隠逸生活を始めたという,人生においての大きな転換期でもある。「三老吸酢」を題材とする作品が最も早く見られたのはこの時期であったO〔図3〕は,『三聖人図jである。この図は,具体的な制作年は不詳だが,銭斎四十代の作品と見られているものである。先ず,賛文の内容から見てみよう。具大穂持門。若儒道釈之度我度他。皆従這裏。能知真実際。而天地人之白造自化。只在此中。善を持して失わず,悪を持して起こらせない穂持(陀羅尼)の法門を具えれば,儒教・道教・仏教の自分を済度し他人を済度するということも,みなこの纏持の中より出-181-
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