地を遊歴し,行く先々で写生をしたり,読書三味の生活を送るかたわら,京都美術協会委員,京都私立日本青年絵画共進会審査顧問などの審査員としての活動をしたり,学術的な仕事に力を注いだりした。この時期の彼の画風に,日本文人画と明清様式を融合した,生気溢れる迫力のある独特の特徴が見られる。この時期の画風は,銭斎晩年の妻術発展の堅実な基礎を定めたとも言えよう。『三聖吸酢図』〔図5〕は,即ちこの時期の作品である。先ず賛文から見ることにしよう。老子喜談清虚。釈迦専説舎利。夫子聞之。笑倒在地。老子は,好んで清らかにして虚しきものを談じ,釈迦は専ら舎利(仏舎利)を説く。孔子がこれを聞いて笑いこけている〔図6〕(『銭斎研究』第四十六号作品十一)。『識斎研究Jでの解釈で,この賛には次の来歴があることが分かる。『斎東野語』巻十二に次のような文章がある。理宗朝。有待詔馬遠。童三教図。黄面老子。則伽扶中坐。猶龍翁慌立於傍。吾夫子乃作札於前。此蓋内璃故令作此。以侮聖人也。一日惇旨。停古心江子遠作賛。亦故以此戯之。公即賛之日。釈氏扶坐。老鴨傍脱。惟吾夫子。絶倒在地。遂大称、旨。其辞亦可謂微而椀実。『鍛斎研究Jでは,これについて次のような解釈をしている。「釈迦が中央に扶坐し,老子がかたわらに立ち孔子が前に礼拝している図があったことがわかる。鍛斎のこの図は,老子・干し子・釈迦が一つの瓶の酢を嘗めて顔をしかめる図様で,三教一致を説く三聖吸酢図であって,図様と賛が合致しないj。『斎東野語Jのこの文章を読むと,釈迦が中央に扶坐し,老子がかたわらに立ち,孔子が前で礼拝している図は,儒学を統治思想、とする宋の理宗の時代に,馬遠が宮中で理宗の旨を受け,三教祖の中で,孔夫子だけが土下座しているという孔子に対する侮辱の場面を描いたものであることがわかる。ある日,理宗が江子遠を呼び,この絵に賛を題するように命じ,江子遠を困らせようとした。江子遠が即座で題した賛は,乃ちこの賛の内容である。賛の中で,江子遠が巧妙に孔子が土下座しているのを,笑いこけていると解釈し,三教祖の中で-183-
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