鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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孔子の最も気佳である,というふうに孔子の地位を守りながら,自分を困境から解放した機知に富む面白い話であった。銭斎は,何故三教合ーの意味合いを持っている三聖吸酢図にこの賛を使ったのか。それは絵と合わせて考えると,単なる「図様と賛が合致しない」の偶然的な間違いではないことに気がつくのである。『三聖吸酢図』〔図5)は四十代の『三聖人図J〔図3〕と比べて,構図上大きな変化はない。つまり同じ縦長い掛帽で,上部に賛を題し,下部に人物を描き,真ん中に余白を配置したのである。ところが,人物の配置及び描き方を見ると,『三聖人図』と大いに違っていることが分かる。『三聖人図Jの場合,三教の平等及び共存を表すため,三聖人は桃花酸の鉢の前にほぼ同じ水平線に立っている。『三聖吸酢図』の中の三聖人は,桃花酸の鉢を囲んで,イ弗印は鉢と同じ水平線に立ち,黄山谷と蘇東壌の立っている位置よりやや低く,三人の聞にちょっとした空間感覚が生まれる。従ってこの画題のシンボルである桃花酸の鉢は,既にこの場面の中心から離れ,寧ろ三人が囲む空間が場面の中心になっている。三聖人の人物像を見てみると,イ弗印和尚は半ば後ろ姿で,表情が見られないが,彼が出した指は丁寧に描かれている。その指は酢をつけ,口に運ぼうとしているところであろう。悌印の向こうにいる黄山谷は,上半身をやや曲げて鉢の中を覗いている。そのとなりに立っている蘇東壌は,桃花酸を嘗めたばかりと見られ,口唇をへの字にし,視線が少し酢の鉢から離れており,自ら酸味がわき上がるのを待っているようである。明らかにこの図は,三人が酢を嘗めてから共に眉を寄せるというストーリーの再現ではなく,寧ろその前に,三人が桃花酸に興味を示し,それぞれが面白がって味わっている或いは味わおうとする瞬間の描写である。これは何を意味するかと言えば,即ちこの図を通じて織斎が表現しようとしたものは,三聖人のそれぞれの哲学的な象徴的意味でもなく,画題の故事の内容そのものでもなく,それは三人それぞれの桃花酸に対する興味,或いはそれを味わうことへの面白みである。さらに,この図の描法を見てみると,真ん中の蘇東壊と黄山谷は胸を出して,あまり身なりがきちんとしていない様子であり,この画題のシンボルである桃花酸の鉢の提示がなければ,画面からはこの三人の老人の姿は,とても尊敬すべき聖人の写しであるとは考えられないであろう。タッチにもかなり自由な特徴が見られる。線条は太いのと細いのが交じっていて,墨の施し方も規則性がない。備印の袖の部分に集中的に墨色を施しているが,彼の後背部の真っ白な表現と比べてみると少し唐突である。蘇東披の服に点々とした墨は,また悌印の後ろ髪と混同され,清潔感に欠けている。184

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