鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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山谷は手にお酢の皿を持って,悌印の表情を見つめている。「三老吸酢Jの故事に書かれている「三人共に眉を寄せた」ということを,この絵においては蘇東壊だけを通じて表現している。実際画面の中心人物になっているのが蘇東披であることは,絵の中からも伺い知ることができるであろう。「三老吸酢Jの故事は銭斎五十代の『三聖吸酢図』において三人それぞれが桃花酸の鉢に関係して興味を示したり面白がったりすることから,八十三歳のこの作においては,蘇東坂を中心人物とした人物間の感情交流を重んじながら描いていることは明らかである。この人物聞の感情交流の表現は,画面に生気をもたらしたといえるであろう。さらに,筆触の表現を見てみると,人物の五官,服の織の表現は抽象的な太い線条を使っている。この太いタッチは人物の表情にユーモアさを加え,飾り気のない人物の性格付けに大いに役立つことになる。この種の線条は同じ動的とはいえ,五十歳代『三聖吸酢図』の躍動感のある線条に比べて,もっと豊かで,篤実のイメージが強く,銭斎晩年画風の特徴に通じる所である。賛と絵の両方から銭斎の八十三歳の作『三老吸酢図』を見て,次のことが言えるのではないかと思う。先ず王陽明の言葉は,蘇東壌の飾り気のない,自由奔放な個性を感慨する内容であるが,銭斎がこれを引用するということは,即ち鍛斎が受けた陽明学の影響はこの時期なって既に直接に画面を通じて現れるようになったことの表れであろう。また,もともと三教合ーを象徴するこの「三老吸酢」の画題はこの時期の鍛斎にとって,三教合ーの意味を失い,蘇東坂の自由奔放な性格を描く主題へと変わった。それは〔図7〕の備印と黄山谷が二人とも後側面であるが,蘇東披だけが正面ということからも察知できるだろう。銭斎は一生,宋の文豪蘇東壌の人物像を敬慕し,蘇東披関係の作品を多数残した。また,偶然にも鍛斎は蘇東坂と同じく十二月十九日生まれということに縁を感じ,かつて清末の文人画家呉昌碩に「東坂同日生」の印をf乍ってもらった。銭斎はこの印を愛用し,よく蘇東坂を題材とする作品に使ったのである。また,この印を使っている作品の多数は鍛斎が賛意,或いは画題に自分の気持ちに通じる部分を持ち,それを絵に託して描く場合が多い。八十三歳の作『三老吸酢図』に「東坂同日生」が捺しであることからも銭斎は蘇東壌の飾り気のない自由奔放な性格に自分の性格を投影し,画面を通じて自分と蘇東坂の接点を見つけたことが窺われるだろう。-187-

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