口。注(1) 例えばピー.c.ピニング氏が1966年「東西美術聞の相互影響とその現代美術に以上の分析を総じて言えば,各時代の鍛斎の作品に現れる「三老吸酢Jという画題は,表現内容と手法の変化,及びそれぞれの意味は次のようなものである。第一,三教合ーという哲学的な意味を象徴する「三老吸酢」の画題について,鍛斎の表現は年代によって,それぞれに意味合いの変化を経てきた。四十代の作品においての「三教合一」の象徴的意味の忠実な表現から五十代の作品においての生活味と面白味への追求,そして最後に王陽明の語句を援用して時流を超え,さらに飾り気のない自由奔放な蘇東坂の性格を讃美するに至るまで,作品は次第に本来の三教合ーの意味から離れていき,晩年においては明らかに陽明学の影響をみることができる。第二,「三教合一」観の変遷の過程は,鎖斎の画風の変化と同歩的であり,識斎晩年画風の形成は思想的な要因が非常に大きいことと,その中でも特に陽明学の影響,特に心の主体性を重視する「心即理」の理論の現れが無視できない存在であることを提示している。第三,この変遷の過程から伝統画題に新しい意味合いを加えるという織斎の手法的特徴が見られる一方,鍛斎本人の自由奔放,枠にはまらない性格をも窺うことができる。この性格は織斎の晩年画風の雄津,また画面表現の自在さを構成する大きな要因として考えられる。八十三歳作『三老吸酢図』に捺された「東坂同日生」という印が傍証しているように,餓斎は画面を通じて自分の思想性と伝統人物を統ーさせ,古今を融合させたのである。及ぼした効果」のシンポジウムの席上の演述で次のように語った。「私は一つのに進んで、欲しいということである。その方向は無論偉大な日本伝統に由来するもので,実際にはもうその動きが出ているかも知れない。…この提案を私が真剣にする気になったのは,西洋美術の発展の中におけるポール・セザンヌの演じた役割と,そして銭斎が日本美術の中で同じ様な役割を極めてよく演じ得る可能性一私の提案はこの基礎に立っているーを知っているためであることに疑いはない。」ピー.c.ビ、ニング,「今日の日本絵画に対する提案としての富岡銭斎J『墨美一六二』,昭和41年9月刊,9頁希望提案を表明したい。それは日本の画家がもっと創造的且つ表現的な方向
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