鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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に,1864年までパノラマの展示を続けた。パーカーの成功を受けて,その後相次いで、,大陸やアメリカでもパノラマ館が登場する(注2)。ニューヨークでは,早くも1795年に,パーカーのパノラマをキ莫{放した〈ウエストミンスターの眺め〉が公開される。さらにロンドンに滞在していた画家ジョン・トランブル(1756-1843)が,帰国後ナイアガラのパノラマ(1808年,ニューヨーク歴史協会)を描いている。またフランスから帰国したジョン・ヴアンダリン(1775-1852)が,1818年ニューヨーク・シティ・ホールの裏にアメリカ初のパノラマ館を開設,翌年には画家自身が描いたパノラマ〈ヴェルサイユ宮殿と庭〉〔図6〕を公開した。これは現在メトロポリタン美術館に再現されているが,丸い部屋の壁面に幅3.6m,全長50mの宮殿と庭園風景が広がる壮大な仕掛けである。ヴアンダリンのパノラマは期待したほどの観客を集めることはできなかったが1829年まで公開されハドソン・リヴァ一派の祖トマス・コール(1801-48)が何度も足を運んだことが記録されている(注3)。コールが後年描いたいくつかの連作,たとえば<1日の4つの時を表すイタリア風景〉(c.1832-36), {帝国の推移}(1836)' {人生の航路}(1840)などに,こうしたパノラマが何らかの影響を及ぼしていることは間違いないだろう(注4)。ところで,パノラマに照明などを用いて時間的な要素を付加した「ジオラマ」と呼ばれる装置が,1822年のパリに出現した。発明者は,後にダゲレオタイプの写真を創始するフランス人ダゲール(1789-1851)である。さらに,巨大なシリンダーを用いた巻物形式の「動くパノラマ」(movingpanorama)がまずロンドンに登場し,アメリカでは1840年代におおいに流行した。〈捕鯨世界一周〉〈五大湖〉〈ナイアガラ〉などの出し物が次々に現れたが,最も有名なのは,1847〜48年にニューヨークで公開された,ジョン・パンヴァードによる〈ミシシッピ−JI!}のパノラマだろう。これは全長400m,全部見るのに2時間かかるという大作であり,パンヴァード自身が弁士を務めていた。ハドソン・リヴァー派との関連で重要なのは,1850年11月ニューヨーク,ブロードウェイのワシントン・ホールで上演された「動くパノラマj,ジョン・パニヤン(1628-88)原作の『天路歴程』であろう。これは原作のイメージを再現した60枚の場面から構成され,そのl枚〈「死の影の谷」の境に立つクリスチャン〉は,チャーチによる問題の油彩(1847)〔図7〕に基づいている(注5)。チャーチの油彩は,構図や色彩などあらゆる点で,制作の翌年(1848)に亡くなる師コールに負うところが大きい。しかしながら結局買い手がつかず,長い間母の手元にあったのに対して,「動くパノラマ」-193-

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