鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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5〕に,利用されたと考えてよいだろう(注14)。イツの自然科学者フンボルト(17691859)の『コスモス』であるが,フンボルト自身が,自然の驚異を正確に伝えるために写真を使い,観客に臨場感を与えるためにはパノラマを用いることを勧めている(注9)。チャーチは,『コスモスjの英語版がアメリカで発表された3年後の1853年に,発明家サイラス・フィールドとともに,フンボルトの旅を跡づけるため南米へ出発した。チャーチはさらに1857年にも同地を訪れている。そして,この二回の旅行のスケッチをもとに制作された〈エクアドルのアンデス}(1855)や〈コトパクシ}(1862)' <アンデスの奥地}(1859)には,オラーナに所蔵されているマイブリッジや作者不詳の写真が使用されている(注10)。またチャーチはその後外国へ旅行した際,たとえば1868年のスイス旅行では,目に留まった城と山岳風景をスケッチしたばかりでなく,その立体写真を購入して制作の補助手段とした(注11)〔図8〕。さらに1867年に中東からギリシアを訪れた際には,パーゲムという名の写真家を雇って同行させ,帰国後にその写真を併用しながら,油彩を完成させるという念の入れようだ、った(注12)。一方ピアスタットに関しては,より明白に写真の使用を跡づけることができる。ピアスタットの三人の兄チャールズ(18191903)とエドワード(18241906)は,立体写真を専門に扱う写真家だった。またピアスタット自身も,西部遠征の際に多数の写真を撮影している(注13)。1859年4月ピアスタットは,ボストン出身の画家フロストとともに,フレデリック・ランダー(1821-62)率いる西部遠征隊に参加するために出発した。これはミズーリから,カンザス,ネプラスカ,ワイオミングにいたる大旅行で,同年9月にスケッチや写真,インデイアンの工芸品を携えて,ニュー・ベッドフォードの自宅に戻っている。遠征中にピアスタットが撮影したインデイアンや山岳の写真は,二人の兄に手渡され,兄たちはこの直後に地元で写真館をオープンしている。後に作成された写真販売用のカタログには,実際に画家自身が撮影し,油彩の完成作に関連した立体写真も含まれていた。たとえば,カンザス州のウルフ川の浅瀬で撮影された立体写真〔図9〕は,帰郷後に制作された油彩〈ウルフ川,カンザス〉〔図10〕の前景に,多くのスケッチとともに利用された可能性がある。また,ネプラスカ州で撮影されたショーショネ・インデイアンの戦士〔図11〕,および子供たちの写真〔図12〕は,ピアスタットの〈ロッキ一山脈〉の前景に見えるインデイアンの詳細な描写〔図写真は,このように画家に直接,モティーフを提供したばかりではない。たとえば,

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