ウi展示館を作り,世界中のさまざまな地帯と高度の風景を描いた絵を展示するべきである」(注18)。チャーチは〈アンデスの奥地〉を制作し展示することで,『コスモス』におけるフンボルトの主張を実践したといえるだろう。単に絵画を並べるだけでなく,一種のパフォーマンス的な要素を伴う展示法は,〈アンデスの奥地〉に対抗する形で制作された,ピアスタットの〈ロッキ一山脈〉にも共通していた。ピアスタットは展示の際に,草を模した緑色の羅紗を敷いた舞台を作り,その上に絵を置いた。またウイグワムと呼ばれるインデイアンのテント小屋を飾ったり,実際にインデイアンがダンスを披露するパフォーマンスもあったという。さらに訪れた観客に手渡されたパンフレットには,ヒマワリや野生のセージ,ハコヤナギなど,絵に描かれた植生が説明されていた(注19)。ところでこの二作品は,最初は単独作品として展示され,その後,複数の都市を回って多数の人に公開され,しかも直後に版画が作られて,より広い範囲で大衆の目に留まったという点でも共通していた(注20)。二作品が制作された当時,チャーチとピアスタットはともにテンス・ストリート・スタジオ・ビルデイングに居住しており,その制作方法や完成作に共通点が多いのは,ある意味では当然のことなのだが,実際の作品の細部を検討すると,両者の違いが見えてくる。どちらの作品も,細部は現場のスケッチから正確に再現されているのだが,全体の印象は実際の風景とは,かなりかけ離れて見える。特に〈アンデス〉の場合,左上の雪を頂く山は,明らかにチンボラソ山のスケッチや油彩習作に基づいているが,その下方に広がる風景,たとえば滝のある川や十字架の立つ小道,熱帯の樹木などは,異なる場所のスケッチを合成して創造された風景なのである〔図13,14〕。実際,1859年当時の展覧会パンフレットの中で,ウインスロップは「〈アンデス〉の画面を支配する山は,カヤンベでもチンボラソでも,赤道直下にある他のどの山でもない」と述べ,チャーチは特定の山ではなく,ひとつの山のタイプとして描いたと解説している(注21)。一方,〈ロッキ一山脈〉では,特定の場所を描写したピアスタットのこだわりが感じられる。当時のちらしによると,これはサンフランシスコの北東700マイル,ネプラスカのウインド川流域の山岳風景であり,前景にはショーショネ族の村のようすが正確に描かれている(注22)。そして,作品のサブタイトルにもなった白い頂ランダーズ・ピークは,ピアスタットにとっては非常に重要な意味を持つ。名前のいわれとなったランダーは,ピアスタットが最初に参加した西部遠征隊の隊長であり,1862年3月に
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