鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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が,その二重娘内がその点で,清涼寺本弥勅菩薩図も二重線の界線でくくられ,その中に三鈷杵を配し,四隅を※印のごとき文様で飾る形式である。版画作例では界棋を装飾する形式が多く,太平興国5年(980)の大随求陀羅尼輪蔓茶羅図も周囲を金剛杵(五鈷杵)が二重線内に配される。江蘇省江陰県の君孫四娘子墓より発見された端扶元年(988)の『金光明経』見返し図はさらに装飾的で,輪宝や金剛杵のほかに水瓶や蓮華,貝等が配されている(注3)。また,山西省応牒仏宮寺釈迦塔の塑像釈迦如来坐像納入品であった契丹版の妙法蓮華経巻第四見返し図は斜め構図のいわゆる釈迦説法図であるが,二重界線で見返し図を囲み,その中に五鈷杵が配され,四隅には輪宝が描かれる。この摺経の明確な成立年代はわからないが,釈迦塔が遼・重照23年(1054)の完成なので,それ以前の開板である。装飾的な二重界線で囲む形式は版画以外の作例でも若干認められるにせよ(注4),この時期の木版の特徴と系譜として考えておく必要があろう。ちなみに,仁和寺密教図像のうち一切念諦行事勾当像は涌雲上の礼盤に立ち,右手に蓮華を持った掲磨衣の尊像〔図3〕だが,二重枠に囲まれて呪文のような真言を記していることや50.0×30.0センチの大きさからみて,原本が版画(摺札らしきもの)であったことを想像させる。また,『別尊雑記』の阿閑如来も唐草丈をあしらった二重枠線に固まれ,下部に偶文を記している形式〔図4〕も原本が版画の可能性を考えるべきである。龍字であらわされた偶文の文字もいかにも原本の書体が摺文字であることを思わせる。次に開板地である。弥勤菩薩図〔図5〕には「待詔高文進画」とあり,北宋の宮廷画家である高文進が版下画家で,「越州僧知札離」と彫板者の名,そして甲申歳十月丁丑朔/十五日辛卯離印普/施永充供養とあり,これが濯照元年(984)10月15日との彫板制作年月日と永らく供養に充るとの開板目的もわかる。「永充供養」の語句は太祖開宝8年(975)の銭弘倣開板の宝箆印陀羅尼にも見られる語句である(注5)。また,彫板僧知札の越州は宋代では今のi折江省紹興あたりで,臨安の近く。すなわち太平興国3年(987)に滅びた呉越国の地である。『洞天清録』(宋・超希鵠撰)によると「鍵板ノ地三有リ,呉・越・閏」とあり,この三所が印刷文化の中心であった。そして文殊菩薩・普賢菩薩の二枚の版画の図様については石田尚豊氏が飛来峰石窟の華厳仏会像にあらわされる鹿舎那仏を中心とした17草のうちの文殊・普賢との共通-206-

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