鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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(1022)であるので,時代はやや下がるが,図様的にほとんど一致する文殊・普賢の版性を指摘している(注6)。刻銘には「時代宋乾興口口四月日記」とあり,乾興年画も杭州付近で版下が描かれ,開板された可能性も高く,地理的条件からも興味深い。また,同じく像内納入品の『金剛般若波羅蜜多経Jは高郵軍弟子の呉守真の開板印施であるが(注7),高郵軍は江蘇省で杭ナ|、|に隣接する地であり,これも地理的条件を満たすものであろう。先の江蘇省江陰県の端扶元年(988)の『金光明経J見返し図を含め,南宋代には首府となった杭州臨安を中心とした地域であり,南宋の経典の開板地の多くが臨安である。二,清涼寺本四枚の版画の相違点と問題点版画形式の特徴では文殊菩薩・普賢菩薩図,霊山説法図,弥勤菩薩図で共通点を認めることができる。しかし,一方で、,弥軌菩薩図と文殊・普賢図を比較してみるとき,果たして同時期の制作となるものか,また,同一の制作背景をもつものか問題である。弥動菩薩図が鼻梁線を描き,厚手の着衣で宋様式をすでにそなえているのに対し,文殊・普賢図が小鼻だけでやや西域的であるのは待詔画家高文進が手掛けたという版下画家の問題でもあろうが果たしてそれだけであろうか。従来,共に釈迦像納入品という点からほぼ同時期と考えられてきた。だが,版下画家の問題があるにせよ様式が異なるものを同一視することにやや露踏を感じる。清涼寺本に先行する版画としてパリ国立図書館蔵で五代の作例と思われる文殊菩薩騎獅図や同館の開運4年(947)曹元忠刊刻の毘沙門天図などがある。これらは上図下文の形式である。この点に関しては清涼寺本の文殊・普賢両菩薩図も踏襲している。だが,偶文の絵に対する割合は文殊菩薩図ではl対l,毘沙門天図では2対l,清涼寺本の文殊菩薩,普賢菩薩図では4対l程度となっており,より様式的にも洗練されていることのほかにも,絵と文字の関係で異なる(注8)。文殊・普賢が上図下文形式であるのに対し,弥勤・霊山の2図は偶文は下にない。また,清涼寺本の版画四紙を版画の紙質と摺写の二点から見てみたい。現状では清涼寺本の四枚の版画はガラス扶み形式で保護されており,実際の触感による違いは検討できない。だが,20倍のルーペを用いて繊維の質をみることで相違点をみることができた。紙質は弥勅菩薩図の紙は繊維も細く,また,茶褐色の異質繊維の混入も少なく,表-207-

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