鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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面がなめらかな上質な紙である。一方の霊山説法図と文殊菩薩図,普賢菩薩図の紙質はほぼ同ーと思われ,良質の紙ではあるが,弥革力菩薩図に比較してみると,やや繊維も太くまた,茶褐色の繊維の混入と表面のなめらかさの上でやや劣る。紙質の点だけから考えれば,弥勤菩薩図とその他三紙の版画の摺写は異なる時期と考えた方がよかろう。摺写自体についても,弥勅菩薩図の摺写は紙背を見れば明らかなように,版刻線も見事に浮き上がる丁寧な摺写で,用いている墨も潤いのある漆黒の上質な墨である。すなわち,紙質,摺写,墨の3点において他三紙とは明らかに異なるものである。ちなみに,弥軌菩薩図紙背の右下には五センチ四方の朱印が捺されている。文字は摩耗のためか判読できない。この朱印は清涼寺の印とも思われず,とすれば,斎然がこの版画を求めた際に印捺されたものだろう。これは板木管理の点からも興味深い朱印である。さて,高山寺蔵の「達磨宗六祖師像」には画面右下に至和元年十一月初一日開板入内内侍/省内侍黄門臣陳陸奉三聖二月管内と墨書があって,原本は北宋・至和元年(1054)11月1日刊の版画であることが判る。禅宗六祖の図を順に配している。成尋の『参天台五台山記』第六,照寧6年(1073)正月28日の条に汗京の伝法院で廿八日坤天晴借出院倉達磨六祖模摺取とあり,模(かた・板木)を摺り取ったとの記事があり,翌29日には六祖影二張送日本,一張石蔵,ー張進宇治殿とあり,二張を日本へ送り,一張を石蔵,一張を宇治殿に納めたとある。本図は成尋が摺り取った版画の転写本とされている(注9)が,ここで注目すべきは,本図が成尋の摺取った版画を原本とするならば,板木開板が至和元年(1054)で,成尋の摺写が照寧六年(1073)の19年後であることである。すなわち20年近く保管されていた板木で摺写したのである。この板木管理保管が成尋ら一行が勅命により宿所としていた{云j去院であった。北宋の太宗は太平興国7年(982)沖京の太平興国寺に訳経院を設置して,新経典・儀軌類の訳経を推進し,翌年には伝法院と名を改め,ついで隣接して印経院も併設し,開板事業を展開させた(注10)。以降,『萄版一切経』開板の事例にみられるように経典の訳経と開板や端扶元年(988)の『金光明経』ゃ『秘蔵詮』の開板など,宋代にお208

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