きて何をしているのか,その結果,今世紀のタヒチのイメージにどのような影響を及ぼしたのかを検討しようというのが,本研究の目的である。タヒチ作品には裸婦が多い。近年,それらをフェミニズムの立場の美術史から議論した論文が散見される。タヒチ女性の豊穣な肉体を賛美するのは,ウォリス,ブーガンヴイルの昔からあったことだが,批評において,ゴーガンの裸婦が具体的に称揚されるようになったのは1898年頃からと思われる。その年の10月,パリのヴォラール画廊で〈われわれはどこから来たのか,われわれとは何か,われわれはどこへ行くのか〉T・ナタンソン,A・フォンテナスの三人が批評している。ジュフロワは,「少女の一群が放つ,彫像のような形態に内包した生き生きとした美」(注4),ナタンソンは,「もっとはっきりと認識できることは,ゴーガンの形態の自由さである。その例が,いくつかの裸婦にみられる優美さだ。(中略)木々の間で戯れるブロンズ色のニンフたちは,本当に魅惑的であり,われわれをとらえてはなさない」(注5)と絶賛しており,三人の中ではもっとも厳しく批評したフォンテナスさえ,現在オルセ一美術館にある〈ヴァイルマティ〉の裸体に優美さを認めている(注6)。された年でもある),サロン・ド一トンヌでゴーガンのタヒチ作品が多数展示されたが,P・ジャモによるサロン評にも同様の調子の一節がみられる。「ゴーガンは,動物的で飼い馴らされていない気品の内に,このプリミティヴな種族の気高さと優美を表現することを知っていたJ(注7)。ジャモの詩的で冗長なゴーガンのマオリ女礼賛は,当時タヒチ作品の評価がまだまだ少数とはいえ一部の批評家,芸術家,コレクターの間でいかに高まってきていたかを示している。M・ランスによれば,タヒチ作品の市場価値が強固な基盤を築いたのもこの頃であったという(注8)。ブーガンヴイルからピエール・ロティまでのフランス文学でタヒチがどのように扱われてきたかを研究したF・グレイは,小説『ロテイの結婚』はキリスト教によって教化すべき対象となってしまっていたタヒチを救い出し,愛の島として再び匙らせたと指摘している(注9)。この説を援用して,ジャモは,ゴーガンの裸婦に愛の島の視覚的な復活をみていたのかもしれない,と考えるのは穿ちすぎであろうか。2 欧米におけるタヒチ作品受容(W561) (注3)及びその関連作品9点が展示された。その個展を,G・ジュフロワ,1906年(初めてゴーガンの伝記がJ.ド・ロトンシャンによってワイマールで出版-11-
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