ハUつ臼も開板年は羅!昭元年(984)をかなり遡る可能性も想定せねばなるまい。三清涼寺の版画の将来清涼寺本の場合は薙照元年(984)10月間板の弥勅菩薩版画が翌年8月には像内に納められ,その翌年には日本に請来されている。版下画家の高文進が版下図を描いた場所が沖京なのか不明だが,この10月をそう遡る時期とも思えない。鈴木敬氏によると画風もそう違わないだろうとされる(注12)。しかし,越州僧知札が刻したものなので,板木が汗京にあるのか越州近辺にあるのが問題であろうし,嘉照元年10月に斎然は台州にはいない。しかも,10月開板の弥勤版画を10月に摺写したかは不明で、ある。さて,清涼寺蔵釈迦如来像の納入品である「入瑞像五臓具記捨物注文」(羅照2年・985)には(注目)入瑞像五臓具記捨物/台州都僧正景莞捨水精珠三頼/…中略…/日本国東大寺法済大師賜紫斉然捨仏舎利一頼菩提念珠一留||/鏡子一面最勝王経一部裟羅樹葉金玉宝石等/日本国僧嘉因捨小書法華経一部霊山変相一隆/薙照二年八月初七日造像之次入…中略…/時羅照二年八月十八日とある。台州開元寺にて造立の釈迦如来造像に際して納入品が用意された。これでみる限りでは,版画の霊山変相図を納入したのは嘉因であり,弥勤菩薩図・文殊菩薩図・普賢菩薩図の三枚についての記述はない。弥勤菩薩図の開板年が前年の羅照元年(984)10月15日であり,釈迦像造立の8月までに斎然一行がいずこかで入手したことになる。斎然の納入品は御手印縁起など持参したものを除けば,そのほとんどが台州で調達したものである。すなわち,釈迦像造立の時期に際して納入したのであり,それ以前に宋で入手して携行していたと思われるものを納入してはいない。造像開始とともに納入すべく納入品を用意したのである。納入品の[育然入宋求法巡礼行並瑞像造立記」によると,嘉照2年(984)3月2日に汗京を辞し,その折りに一切経と新訳経典を賜り,3ヶ月半後の6月27日に台州に戻り,7月21日に釈迦像の造立開始である。五臓などはこの発願と同時に制作され始めたのであり,水月観音鏡像もそうであろう。しかも,版画に関しては釈迦と弥勤,釈迦と文殊・普賢,釈迦と霊山説法と本像との思想的関連と納入意図が明らかである。造立発願後に釈迦像との関連から版画を揃えたと考えた方が良さそうである。このように考えれば,版画類も台州で入手したと考える方が自然である。
元のページ ../index.html#221