鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
222/763

先述のように版画の場合,達磨六祖図のように板木を調達して新写したものを入手したのか,摺写されていた版画を入手したのかの問題もある。開板年は遡っても摺写が造立に際していると考え,新写したものであれば,複数枚数を新摺写した可能性も否定できない。一枚しか入手できなかった版画を納入したというのも逆に考えにくい。清涼寺本尊の三国伝来釈迦如来像の請来者である斎然には,請来目録が伝存せず,具体的な請来品は不明である。しかし,太宗から萄版一切経を賜り,また,新訳経典も請来している(注14)。一切経に関しては藤原道長の氏寺・法成寺の経蔵に納められたことが知られている。法成寺の焼失とともに一切経も失われ,その様子をしる由もないが,その他の新訳経典も法成寺に納められたものらしい。それらは残念ながら他の史料の「斎然法橋在唐記j「斎然在唐記J「育然記j等によって断片的に知るのみである(注15)。清涼寺本の版画4枚については,納入品であるので,我が国の平安時代への影響はなしと考えられている。しかし,板木からの新摺写で複数枚数の可能性を考えれば,我が国の影響を考慮外とするわけにはいかない。むしろ,認めるべきであろうか。熊谷由美子氏が指摘された東大寺南大門の仁王像の図像的典拠(注16)や泉武夫氏が論じられた弥軌菩薩画像(注17)なども複数枚の版画という点でとらえることができる。四,密教図像における版画の請来育然以降にどのような木版が請来されていたかは先の成尋『参天台五台山記』の達磨宗六祖師像や五百羅漢図などで知られるが,その他にも史料から散見することができる。寛信撰『小野類秘抄.I(『真言宗全書』鼻には「転法輪事j故僧正院御祈被行之時。唐本長茶羅摺本被懸。九龍頭候。小年事↑造憧不覚云々。とあり,転法輪の唐本摺本憂茶羅があったことが知られる。また,恵什の『図像抄』(『大正図像』)巻第八の念怒・烏費沙摩明王には唐本画像云。忍:怒形立盤石。……摺本故不知身色也。像下書云。此之神呪是釈迦世尊以神通力化出金剛而宜説之請時宣先讃聖次称三宝名とあり,烏費沙摩明王の唐本摺本があった。摺本であるから身体の色が解らないという点も面白いが,それより「像下書云Jとあることから像の下に讃もしくは偶丈がある形式の点で,清涼寺本の文殊・普賢の版画,そして,『別尊雑記』に収録された阿閑

元のページ  ../index.html#222

このブックを見る