鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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(8) 尚,文殊菩薩の下部賛において「阿羅波遮那」の「那」の後ろ二行程度が空白と(9) 望月信成「達磨宗六祖師影J(『宝雲』第3冊,1932年)及び中野玄三「宋請来図(14) 成尋の『参天台五台山記』第七,照寧6年(1073)3月23日の条になっているが,これは版下絵の段階でのバランスの悪い賛というよりも,意図的に摺写されなかった部分か,板木自体が削り取られたものと考えるべきであろう。像の伝播長寛三年般若十六善神図像を中心にしてJ (『国華』1026号1979年,後に『日本仏教絵画研究J所収,法蔵館,1982年)中野氏は入宋僧の中で特に請来が多く,後世に影響を与えたのは斎然と成尋の二人であるとしている。(10)宋版一切経の開板背景については大蔵会編『大蔵経成立と変遷』(百華苑,1964年)及び兜木正亨「版経J(『新版仏教考古学講座第六巻経典・経塚J所収雄山閤出版,1984年)参照書を参考とした。同鈴木敬『中国絵画史J上古川弘文館,1981年同『日本彫刻史基礎資料集成平安時代』造像銘記篇第l巻中央公論美術出版1966年伏親,聖朝新訳経五百余巻,未伝日本,昨嘉照元年日本僧斎然来朝,蒙,大宗皇帝賜号,法済大師,三年還帰,賜大蔵経一蔵及新訳二百八十六巻,見在法成寺蔵内,成尋今来欲乞賜上件新訳経,所葉流通,祝延,聖寿……とあり,斎然、の請来した大蔵経と新訳経典二八六巻が法成寺の経蔵に納められていたことがわかる。宮崎法子「伝斎然将来十六羅漢図考」(『鈴木敬先生還暦記念中国絵画史論集J所収,吉川弘文館,1981年)この中で宮崎氏は同時期の史料から十六羅漢についての記載がないことから,斎然請来の十六羅漢を疑問視しており,また,現清涼寺本が斎然請来本ではないとする。それは同氏の「宋代仏画史に於ける清涼寺十六羅漢像の位置」(『東方学報』京都,第58冊,1986年)に詳述されている。本稿でもそれをうけてここでは十六羅漢を斉然請来と考えない。同西岡虎之助「第二章文化史における中国と日本J(『西岡虎之助著作集第3巻文化史の研究I.I所収,三一書房,1984年),及び本宮泰彦『日華文化交流史』(冨山房1955年)214 ω 『東京夢華録J入矢義高,梅原郁訳(岩波書店,1983年3月),訳文については本

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