⑫仏浬繋図の研究研究者:東北大学大学院文学研究科博士課程谷口耕生本研究で特に注目した二点の仏浬繋図,京都・高山寺本〔図l〕および和歌山・浄教寺本〔図2〕は,ともに鎌倉時代前期において釈迦信仰の興隆に寄与したといわれる明恵房高弁の周辺で制作されたと考えられている。高山寺はいうまでもなく明恵が創建した寺院で,高山寺本も小幅ながら彼の在世時まで遡りうる古様を示しており(注1 ),近年では本図が,明恵周辺との関連性があると見られる円通寺蔵釈迦誕生図と多くの共通点をもつことが指摘されている(注2)。浄教寺本については,すでに武田和昭氏による詳細な論考があり(注3),明恵在世時に遡る鎌倉初期の作であること,浄教寺の什物が明恵と関係の深い神谷最勝寺から引き継いだものであること,比丘形に明恵の十六羅漢信仰からの影響が認められることを根拠に,明恵の意図によって描かれたものとされる。以上の先行研究を踏まえながら本研究では特に両作品の図像を比較・分析することを中心課題とし,さらにそれがどのような過程を経て明恵周辺で受容されたのかについて,文献史料に依りつつ彼の信仰と関連付けながら考察をおこなった。一般に浬繋図は,釈迦の姿型や宝床の描き方,動物の数などによって大きく二形式に分類されることが多い。釈迦が両手を体側に付け仰臥もしくは横臥し,宝床が向かつて右側面を見せ,動物の数が少ない等の特徴を持つものを第一形式と呼ぴ,平安後期から鎌倉時代に多い古い形式とされる。第二形式は,釈迦が右手枕に両膝を曲げて横臥し,宝床の向かつて左側面を見せ,動物の数や種類が多いという特徴をもち,鎌倉後期以降圧倒的に主流を占めるようになる。従来,明恵と浬繋図の関係については,彼の著作である『四座講式』を通じて第二形式の普及に大きく寄与したことが強調されてきたが,明恵の時代に遡る高山寺本や浄教寺本は,ともに従来の分類に従えば第一形式に含まれる。さらに両作品の図像をより詳細に比較すると,必ずしも同一形式として一括りにはできない要素が互いに多く含まれていることに気付く。高山寺本と浄教寺本に認められる特徴的な図像を以下に列挙した。(1) 高山寺本と浄教寺本の図像比較高山寺本・浄教寺本を中心として一一一-218-
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