鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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日吋4),以上の作例の多くが南都ないし南都とゆかりの深い真言宗寺院に伝来しているこUつω[高山寺本]中央の釈迦の姿型に注目すると,両手を体側に付けて横臥し,やや撞げた顔を正面から捉え,腫を合わせて両足先をハの字状に聞く。これとほぼ同様の姿型の釈迦の姿型を描く浬繋図は,平安末期の東京国立博物館本を先駆として,奈良・新薬師寺本(鎌倉前期),京都・清涼寺本(鎌倉中期),和歌山・西門院本(鎌倉後期),三重・西念寺本(鎌倉後期),京都・醍醐寺本(鎌倉後期),大阪・常福寺本(室町)など,鎌倉時代以降に制作された数点が知られるに過ぎない。西門院と常福寺は現在高野山真言宗に属しており,西念寺本も墨書銘からかつて南都に伝来したことが知られるなど(注とから,高山寺本系統の釈迦の図像は南都を中心に流布したものと考えられる。画面上端に左右一対の形で二人の飛天を向かい合わせに描くことは,浄教寺本にも共通する構図である。すでに敦士皇莫高窟第二九五窟(惰)の浬繋図や,浬繋図ではないものの法隆寺蔵玉虫厨子の舎利供養図にも全く同様の一対の飛天が描かれており,日本に早くから伝わった古いスタイルであることがわかる。宝床左上の鰭袖の衣に払子を持つのが党天,宝床右方で袈裟を着け独鈷杵を持つ手で涙を拭うのが帝釈天である。究天・帝釈天ともに二管・三目で著されており,このような組み合わせは,浬繋図では新薬師寺本に描かれるほか,兵庫・聖徳寺本釈迦十六善神像(平安後期),興福寺蔵板絵護法善神像(鎌倉後期)などに見られ,これも南都を中心に流布した図像であると考えられる。宝床手前で角髪を結い唐装という姿で供物を捧げる童子は,金剛峯寺本(応徳浬繋図)の銘文を参照すれば迦葉童子であることがわかる。迦葉童子を唐装で表すことは,平安中期の金剛峯寺本以来,兵庫歴史博物館本(鎌倉前期),清涼寺本,兵庫・楽音寺本(鎌倉後期),京都国立博物館本(鎌倉後期),西門院本,西念寺本など,いわゆる第一形式に分類される古い形式の浬繋図に描かれることが多い。これは第二形式の浬繋図に描かれる迦葉童子がほぼ例外なく泣き悶える裸形として表されるのと明らかな対象を見せる。以上のように,高山寺本は総じて平安以来の図像を継承する守旧性を見せており,特に南都との強い関連性が認められることは注目される。

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