(2) 明恵周辺の浬繋儀礼との関係ば,京都との接点が浮かび、上がってくる。なお,釈迦が横たわる上方に,如来を覆うほど巨大な長方形の天蓋が描かれており,従来より他の浬繋図には全く見られない特異な描写として注目されてきた。この天蓋に込められた意図については後述する。これまでの分析によって,共に明恵の周辺で制作された可能性のある高山寺本と浄教寺本の図像は,前者がより古様で南都との親近性が強く,後者には新しい要素が認められ京都周辺との繋がりが窺えた。両浬繋図に差異が生じた理由について,それらが用いられた場である明恵周辺で行われた浬繋会と関連付けながら以下に考察する。まずは明恵が行った浬集会の変遷を見ていこう(注10)。『高山寺明恵上人行状』によれば,明恵は幼年の頃にはすでに釈迦が入滅した二月十五日に,山林深谷において読経念仏を行っていた。中年になると処々の樹下や山中で浬繋会を行うようになり,荘厳した木を菩提樹と号して仏号を唱えたという。さらに建仁元年(1201)から住した紀州糸野の成道寺では,庵室の傍らにあった大樹を同様に菩提樹と称し,多くの人々を集めて浬繋会を行っているが,この頃まで明恵は同法会において浬繋図を用いていなかった。明恵が浬繋会で浬繋図を用いるようになるのは,元久元年(1204)の紀州湯浅における例が文献上の初見である。このときの浬集会では,明恵作の『十無尽院舎利講式』を彼自らが読請し,浬襲図に対して滅後の愁歎を泣きながら述べたとされる。この『十無尽院舎利講式』は,前年の建仁三年二月二十七日に春日明神の託宣によって明恵が笠置寺に貞慶を訪ねた折り,仏舎利二粒を譲り受けたことを契機として,同年の八月八日に著されたものである。湯浅における浬葉会では,浬葉図を本尊にするとともに,貞慶からもらった仏舎利を奉じて『十無尽院舎利講式Jによる儀礼が営まれたと考えられる。このように明恵が行った浬葉会において,礼拝対象として新に浬繋図と仏舎利を加えるという儀礼形態、の変化には,貞慶が大きな影響を与えた可能性があろう。貞慶は,南都教学の復興者として,さらには舎利信仰を積極的に鼓吹したことでも著名であるが,彼が浬葉会としては当時最も盛大だったといわれる興福寺の常楽会にも関わっていたという事実は案外知られていない。東寺観智院金剛蔵『貞慶抄物』(鎌倉後期写本)は,貞慶の願文を含む南都の勧進帳部類集成で,貞慶周辺撰述の可能性-221-
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