がある『讃仏乗抄』にも同文が記載されているものである(注11)。ここに「請殊蒙知識御助成以常楽曾次奉供養興福寺金堂釈迦如来状」と題する勧進状が収められており,貞慶周辺が興福寺金堂の常楽会に関与していたことがほぼ確かめられる。ところで,弘仁年間にはすでに興福寺に浬繋画像が安置されており(『興福寺流記』東金堂条),同寺常楽会の本尊は当初から浬繋図であった。しかし,『菅家本諸寺縁起集』興福寺金堂条に「二月十四日修報恩会,号舎利会,自承元二年始之云々,」とあり,承元二年(1208)から,常楽会の前日に当たる二月十四日に報恩会(舎利会)を修すようになったことがわかる。『類従世要抄J等の興福寺の鎌倉時代における年中行事書によれば,報恩会と常楽会の次第は仏舎利を介して密接に結びついていた。後世の記録ではあるが両日にわたって貞慶作の五段『舎利講式』を用いて舎利講が営まれていたことが『大乗院寺社雑事記』(長享二年同日条など)に見えていることを踏まえると,興福寺において浬繋図とともに仏舎利にも重要な役割を与える形で浬繋儀礼を整備したのは,やはり貞慶だったと考えられよう。なお,貞慶の五段『舎利講式Jは建仁三年頃に著されたといわれるが,同年に成立した『十無尽院舎利講式』にも影響を与えているという指摘がある(注12)。よって元久元年に明恵が行った『十無尽院舎利講式』による浬葉会は,貞慶との仏舎利の授受を通じて舎利信仰と密接に結びついた南都の湿繋儀礼から大きな影響を受けていた可能性が極めて高い。しかしながらこの段階に至っても,「難経年序未定法式」(『行状』)とあり,定まった法会の次第がなかったことがわかる。そこで明恵は,建保三年(1215)に『十無尽院舎利講式』を発展させた形で『四座講式Jを撰述し,高山寺においてこれに基づいた浬繋会を恒例化した。具体的には,本尊として,浬繋図とともに十六羅漢図,菩提樹図,仏舎利を納めた舎利帳を安置し,浬葉講,羅漢講,遺跡講,舎利講が営むものであった(注13)。菩提樹に見立てた木はすでに若年の頃より浬葉会で礼拝しており,浬繋図と仏舎利は『十無尽院舎利講式』の成立後に浬葉会で礼拝対象に加えられたもの,そして十六羅漢も建久年聞から釈迦とセットで篤く信仰してきたものであったが,明恵は新に整備した浬葉会において,これらを密接に結びつける形で本尊としたのである。さて,以上のように,紀州の地で行っていた『十無尽院舎利講式Jによる浬葉会が貞慶を介し南都の強い影響下にあったと考えられるのに対し,『四座講式』による浬葉会は,京都・高山寺という地で彼が自らの信仰に基づいて練り上げた浬繋儀礼の集222
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