大成ともいうべきものである。このような明恵周辺における浬繋儀礼の変遷が,本尊とされた浬繋図に影響を与えなかったはずはなかろう。すなわち,高山寺本の図様に指摘することができる南都との親近性が前者に対応し,京都周辺の制作環境が想定される浄教寺本の図様には後者との繋がりを見出すことができるのではないだろうか。ここで特に,浄教寺本の図様には『四座講式』からの直接的な影響が窺えることを強調しておきたい。最初に紹介したように,釈迦の宝床を取り囲むように描かれる十六人の仏弟子については,『四座講式』のうち「十六羅漢講式」から影響を受けたものであるという,武田和昭氏の指摘がある。武田氏はさらに,釈迦の上方に描かれた天蓋〔図3〕についても,『大般浬繋経後分』巻上の「無数香泥香水。賓蓋賓瞳賓幡異珠理略。遍満虚空。」(大正蔵巻十二.906下)という記述との関連を想定している。しかし,菩薩や天人の如来に対しての供養に関する記述がこれほどシンボリックな図像として絵画化されるとは考えにくく,むしろ筆者は『四座講式』の記述との関係に注目する。この天蓋には独特の円形文様が施され,さらに中央部の蓮台には瑠璃色の火炎宝珠が載っており,視覚的に極めて強い印象を受ける。特に火炎宝珠は,震が掛けられることで,単なる飾りではない存在感と象徴性を際立たせていることが注目される。『四座講式J中の「舎利講式」第一段には,「悲華経中説舎利利益。三災劫末時。矯瑠璃賓珠。jとあって,舎利が宝珠に変じるという『悲華経』の記述が引用されているが,この『悲華経』の記述は『覚禅室長、』「舎利」項にも「舎利成賓珠jとしてヲ|かれる著名なものである(大正図像巻五・601中)。さらに同講式の第二段では舎利の当代における利益を讃歎する中で,「酷羅城頂骨。(中略)其相仰平形知天蓋jと記す。この酪羅城の頂骨舎利については,出典と考えられる『法顕伝』に「天蓋」という記述は無く,明恵が創出したイメージであると考えられる。このような『四座講式』「舎利講式」が説く舎利に対するイメージを視覚化したものが,浄教寺本に描かれる宝珠を載せた天蓋であり,これが釈迦を覆うことで浬繋と舎利の結合を象徴しているのではないだろうか。以上,高山寺本の図様が貞慶を介して南者防、らの影響によって成立したのに対し,浄教寺本の図様が『四座講式jの影響下で成立したとする本稿で示した図式は,あくまでも明恵周辺で異なる浬繋図像が受容された背景を大づかみに説明したもので,これがそのまま高山寺本および浄教寺本の制作経緯に直接結びつくというものではな223-
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