注年い。個別の制作背景については,様式検討も踏まえて今後改めて取り組みたい。また,高山寺本系統の図様が,その後も明恵とゆかりの深い南都真言系寺院を中心に流布していくのに対し,j争教寺本の『四座講式』に基づく図様については,あまりに独創的だったためか後世にはほとんど流布していない。ただ,摩耶が阿那律とともに飛来するなど鎌倉後期以降に定式化する図像が部分的ではあるがすでに浄教寺本に表れており,明恵が第二形式の浬繋図に与えた影響についても今後改めて検討が必要になってこよう。最後にもう一点,明恵周辺における浬繋図制作を考える上で,西山法華山寺の勝月房慶政との関係も注目に値する。慶政は天台宗寺門派の僧で,入宋経験があり,法隆寺舎利殿を再興するなど篤い舎利信仰を持っていたといわれる。明恵と慶政の交友は『四座講式』が著される建保年間頃から頻繁となり,仏浬撲の日に臨んで和歌の贈答をするなど,互いの浬繋会のあり方にも影響を与えあっていた可能性がある。南都仏教の代表者たる貞慶と異なる経歴を持つ慶政との交流は,明恵の浬繋図制作にも少なからず変化をもたらしたのではないだろうか。j争教寺本の祖型ともいうべき釈迦を描く浬繋図として達磨寺本を先に挙げたが,同作品が伝来する達磨寺は慶政によって堂宇が整備されたといわれる(注14)。もちろん平安時代に制作された達磨寺本と慶政を直接結びつけるつもりは毛頭ないが,高山寺本などの南都系の浬繋図とは異なる浄教寺本の成立に,慶政との交流が影響した可能性は否定できないだろう。(1)宮島新一「釈迦追慕と弥勤信仰」『図説日本の仏教第四巻鎌倉仏教J新潮社,1988年(2) 泉武夫「新出の円通寺蔵釈迦誕生図」『仏画の造形』吉川弘文館,1995年,補注(3) 武田和昭「和歌山・浄教寺蔵浬繋図考一明恵上人との関係をめぐって−J rMu-(4) 特別展図録『西教寺と天台真盛宗の秘宝』大津市歴史博物館,1994年(5) 有賀祥隆「平安仏画と南都仏画」『日本美術全集7蔓茶羅と来迎図』講談社,1991(6) 下坂守「中尊寺経の墨書銘」『昭和63年度・平成元年度科研報告書金剛峯寺蔵中尊寺経を中心とした中尊寺経に関する総合的研究J,1990年SEUMJ第490号,1992年224
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