1 岸駒の創り出したもの岸駒が生地より上京して京へ住まいを定めた安永8年(1779)(注1)には与謝蕪村,伊藤若沖,曾我薫白,円山応挙など現在でも日本美術史上に名を残す画家たちがひしめき合っていた。このような中にあって絵筆を揮って身を立てていくのはたいへん困難なことであったと考えられるが,岸駒は長崎派風の描き方を以て画壇に登場したことが残された作品から知ることができる。安永から天明年間にかけての作品は花鳥画が多く,それらは長崎派系の画家が多用した「迷語的(寓意的)吉祥性jを含んでいることもしばしばで,構図的にも対角線上にモチーフを配し,濃彩で対象物を描いたものが多く見られ長崎派の影響下にあったことを強く印象づける。また,黄筆や李思訓など中国の有名画家の筆法に倣った旨を款記に加えるなど中国画を背景にした作画活動を進めていた様子はすでに指摘されている(注2)ことではあるが,この期の作品をより多く確認できたことでその認識を確かなものにすることができ,このことは当時の文人画家などの著述に顕著なように中国の文化を尊ぶ時代の雰囲気をうまく捉えた結果と考える。長崎派風の絵画は京都ではあまりはやらなかったと言われ続けてきたが,近年の研究により必ずしも全く受け入れられていなかったわけではないことが明らかに成りつつある(注3)。ただし,有力な一派を成すほどの勢力を有する長崎派系の画家が岸駒若年期の京都に存在しなかったことは事実であり,文人画ではなく,円山応挙の写生画風とも違った画風でかつ,当時尊ばれていた「中国」を標携することで京都の人々の目を引こうとしたのではないかと考えるに至った。ただし,この時点では対象物の形や雰囲気を的確に画面に再表現するという点では「写生画派jといったくくりに入れることも可能で、あろう。続く寛政期以降,次第に今日数多く見られる肥痩のある墨線で対象物を描く傾向が見られ,更に文化期にはいるとそのような作品が大半を占め,ここに岸駒独特の画風を完成させたと云えるのではないだろうか。はたして,このような作品群が岸駒の評価を高めたとは今日から見ると言えないが,少なくとも岸駒在世時においてはこのような絵を所望する人々が多く,それに応えるために数多く制作されたことは間違いない。さて,この寛政期以降の画風がどのようにしてできあがったかについて従来考察されたことはあまりない。その原因のひとつにはこの時期の作品が濫作であり,検討するに値しないといった見方が根強くあったためと思われるが,岸駒の在世当時は宮中から幕府,諸大名,富裕な農民や町人に至るまで幅広い階層,地域的にも管見の限228
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