鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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人間の欲望との相克,葛藤が生々しく露呈した事件も映画化され(F.ロイド監督,1935年)' 1934年にタヒチ・ロケが敢行された(結局はカリフォルニアの島で撮り直されたが)。それに対して,ハワイを舞台にした映画は,セックス・アピールのある白人女優を主役にして官能的なフラを踊らせたり,紋切り型の楽園イメージ(青い海,白い砂浜の類)を拡散させたりしながら,俗受け,娯楽に徹しているものが多い(例えば,『フラ』(V・フレミング監督,1927年)や『バード・オブ・パラダイス』(K.ヴイダー監督,1932年)など)。筆者はすべてのハリウッド南洋映画を見ることができたわけではないし,ゴーガンと南洋映画との聞の影響関係について細かい点でさらなる調査も必要なので,まだ結論めいたことを言える段階にはない。ただ,これまでの調査でひとまず示唆しておきたいのは以下の点である。タヒチを舞台とした映画が一応はノスタルジックでシリアスなテーマを内包しているのは,当時芸術家としての評価も,作品,とりわけタヒチ作品のアメリカでの評価も揺るぎないものとなっていたゴーガンに負うところが大きいのではないか,そして,ポリネシア女性の美と官能性,現代において通俗的に流布している南海の楽園観という側面は,ハワイ映画の方で大々的に表現されたのではないだろうか。ゴーガン以後,タヒチに渡って活動した画家は多い。この章では,彼らとゴーガンのタヒチ作品との関係を検討してみたい。ゴーガンがマルケサス諸島に移住した1901年にタヒチに来たフランス人画家に,シャルル・A・ルモワン(1872-1918)がいる。今では欧米でほとんど忘れられている彼は,そもそもエコール・デ・ボザールの教師リュックニオリヴイエ・マーソンに師事していたが,小説『ロテイの結婚Jやゴーガンの足跡を追うように,タヒチにやって来た。以後16年間,総督府の行政官で生計をたてながら,仏領ポリネシアの島々で制作した画家である(注13)。タヒチ滞在時の作品と思われる〈プナアウイアの祭り〉〔図l〕(彼の作品には2,3の例を除いて制作年が記されていない)を見てみよう。この作品に如実にみられるように,持ち前のデッサン力,構成力を発揮しながら,ポリネシアの逸話的な情景を自然光の下で現実的に描くのがルモワンの特徴である。ゴーガンの技法,画風とは全く対照的である。だが,画面左下に「TAHITI1909 Jと書き込み3 ゴーガン以後のタヒチ画家におけるゴーガン受容-13-

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