りでも奥州から九州、はでの広い地域の人々から求められており,現在的な評価とは違ったところでもてはやされていたのは事実であり,この画風が受け入れられたことを探ることは当時の人々の美意識をはじめ美術品の需要に対する考え方を知る上で資するところがあるのではないかと考える。さて,この期の岸駒作品の画風の形成に関しては明清画,特にi折派の影響を指摘する見方があるが(注4),岸駒自身が語る資料はなく作品に依らざるを得ない。今回は筆者のi折派に対する認識が浅いために,具体的に影響関係を指摘するには至らなかった。しかし,文人画はもとより奥田穎川や青木木米らによる明清の陶器を模した京焼の流行など,明清の文化を積極的に受け入れようとした人々が19世紀前期の京都にいたことは事実であり,岸駒の画風形成にも影響があった可能性は十分あると考える。残された作品には花鳥画,人物画,山水画などほとんどの分野にわたって肥痩のある線描が見られ,円山派や四条派をはじめとする写生画を十分に本画に活かした画派と同一視できるほどの類似点は少なく,やはり「岸派」としての一つのまとまりを考えるべきであろう。ただし,近年調査の進みつつある岸派に関わる粉本類(注5)などには実物を写生したことを示すものが含まれており,基礎的には物を的確に写し取るところにおいていた点は円山応挙の写生画に影響を受けていたと言えよう。あらためて近世絵画史に関して記述された書物を繕いてみるとおおよそ「岸派」に関しては岸駒からはじまり,岸岱,岸連山,岸竹堂へ継承されたという風に記述される場合がほとんどである。『東洋美術史大観』などの大部主書物や詳細を説く書物においてのみそれ以外の人物河村文鳳,村上松堂,横山華山および岸家一族の名が見られる。実際,現在の段階でどこまでを「岸派jというかは微妙な問題を含む。従来あまり検討なしに使用されてきた文言であるが,そもそもこのような流派分けが19世紀の京都画壇を語るにおいて必要なのかどうかさえ,検討されていないのが現状であり,一方では円山派や四条派,岸派,原派などをまとめて「写生(画)派」と称し,文人画と対峠させようとする見方も存在する。確かによく指摘されるように19世紀の京都において大量に製作された花鳥画の分野においては,それぞれの流派において類似する点も多く指摘できる。例えばモチーフにする草木を身近な所にあるものをそのものと2 「岸派Jの範囲-229-
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