鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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分かるように本画に活かしたり,余白を多く取り,対象物を描く際には淡い色彩を多用する点などである。しかし,その他の分野,特に人物を画くに当たって「岸」を標梼する画家は,肥痩の多い描線を多用するところから一つのグループ分けが可能である。一方,岸駒に師事しながらも最終的にはそのような表現方法を採らずに勢力を確立した横山華山などもおり作品と師承関係が必ずしも一致しないところにもこの時期の画壇状況を見るにグループ分けが必要なのかどうかさえ疑わしくなる。このような問題点を苧みながらも,現状ではやはり岸駒に影響を受けた人々を一応「岸派jとしてくくり,その中身を詳細に区分することにより,19世紀の京都画壇を捉える一つの目安とするには有用であると考える。さて,では具体的にどのような人物が岸駒の影響を受けて作画活動を行っていたのか,言い換えれば流派としてのまとまりをもつために複数の弟子を抱えるようになったのはいつ頃からかというと,「政隣記J(注6)にみられる文化6年(1809)金沢城二の丸御殿造営のために一門を率いて下った記事が現在のところ比較的早いものと思われ,岸岱,村上松堂,望月玉川らの名前が見られる。これ以前にも寛政元年(1789)'御所の障壁画制作をはじめとする公的な事業に係わっていた岸駒だが,おおよそ単独か,見方によっては円山応挙門下として(注7)の参加ともとらえられるため,金沢下向の記事が岸派草創期を物語る資料といえよう。『平安人物志』の文化10年版でも同様である。その後,岸成や岸良など技量の高い弟子を婚姻によって一族となし,岸一門の勢力拡大をはかつていた様子がうかがわれる。この様子は,従来指摘されるように文政5年版以降の『平安人物志』からでも明らかであるが,他にも〔表1〕に挙げたように展観への出品状況からも窺い知ることができる。江戸時代後期においてはさまざまな展観が行われており,その出品目録が残っている場合もあり,それらから何かの情報が読みとることができるのではないかと考えられる。もちろん展観の主旨や規模などその会ごとに異なる事情があるが,展観に出品するという行為自体,所属する画派から公の場所へ作品を並べることを認められた結果と言うことができるのではないだろうか。よって,展観の目録にその名が記されている人物をグループ分けしていけば当時の画壇の状況をかいま見る一資料となると考えた。現在,岸派画家の出品が確認される展観の内,その詳細を確認することができたのは〔表1〕の通りであり,これを見ると時を経るごとに岸派画家の人数が増える傾向にあり,おおよそその顔ぶれも似たようなものであることが分かる。ここにおい230

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