鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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て当時の岸派の画家として一般に知られていた人々の名が,現在岸派として知られる人々より格段に多く勢力を有していたことが分かるのではないだろうか。さて,一方,岸駒と師弟関係を結びながらも岸姓を冒さずに活動していた画家に河村文鳳や横山華山らが挙げられる。彼らの画業の詳細については余り多くが明らかになっていないが,先述した展観開催の様子からは,そこそこの勢力を張っていた様子が明らかになった。ひとつは文化11年(1814)に開催された河村文鳳門下の鈴木月橋主催の展観に,「首陽館門下」(「首陽館」は河村文鳳の号のひとつ)として30名を超える人物が出品しており,このような展観を主催できること自体,画壇はもとより一般の絵画愛好家からもひとつの社中として認識されていたことの証になると考えられる。また,時代は下がるが,横山華山二十五回忌展観も行われており(注8)この時点においても華山一派は岸派に取り込まれない勢力として維持し続けていたことがうかがわれる。また,〔表2〕に見られるように『皇都書画人名録』には画家の師弟関係が記されており,岸駒没後10年ほど経た弘化4年(1847)時点での岸派一門の勢力を窺い知ることができる。これによれば,岸家一族以外では,河村家,横山家,望月家などに師事する者も多く確認でき,必ずしも岸家一族だけが多くの弟子を抱えたグループであったのではなく,それぞれに一定数の弟子を抱えていた様子が明らかであり,構造的には呉春没後の四条派のように各画塾が緩やかな協同体勢を組んでいるところに岸家という宗家をプラスしたような格好との認識も可能かも知れない。ただし,岸駒と直接師弟関係にあった河村文鳳,横山華山,望月玉川の次に位置する世代の画家と岸家が密接な関係にあったのかどうかは現在のところ確認できる資料を持たず,また〔表3〕に見られるように岸家の画家を総動員した感のある善願寺天井画制作に当たっては(注9)河村家や望月家は参加していないところから岸駒没後はあまり共同製作などの交流はなかったものと見ることもできる。さて,岸駒没後の岸派であるが,血縁としては長男の岸岱,その子岸慶,岸札,岸恭がおり,さらにその子も一部は画家となっており,そちらを岸派本流と捉えるべきであろうが,現実には,岸岱の後は,岸駒義子の連山,その義子の竹堂と認識されることが多い。このような認識が果たしていつ頃から起こり,それが正しい捉え方なのかを検証するためには,残された作品と当時の人々の評判を物語る資料に当たらねば3 岸派の継承と評価-231-

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