鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ならないと考えた。ひとつは,社寺をはじめとした大規模な画業を集成することにより,岸家を代表するに価する人物であるかどうかを知ることができるのではないかと考えた。特に社寺は人々が集う場として作品が一般の人々の眼に触れる機会が多く,画家サイド,岸家としでもあまり下手なことはできないであろうという推測に基づくものである。管見の限りではあるが〔表3〕の通り,岸駒の後は,岸岱,岸連山,岸竹堂の手になるものが多くを占めており,血縁よりも画技の質を優先させた結果と考えることカfできるのではないだろうか。また,当時の享受者側の受け止め方を示す資料としては画家番付が参考になるのではないかと考えた。画家番付はその記述者が恋意的に順位付けを行うものであり,当時の享受者全体の画家に対する評価を正しく反映しているとは言い難いが,少なくとも版にして刷られたものである以上は一般の人々の批評にもさらされることであろうから極論ではないと考えたい。〔表4〕に示したように余り数を集めることはできなかったが,江戸後期において岸駒や華山,文鳳らがそこそこ評判を得ていたことは明らかである。また,その次世代以降においては,岸岱,岸良,岸連山らが高い評価を得ている一方,岸駒の血をヲ|く岸札や岸恭らは今一つぱっとしない様子が知られる。恐意的な感のある資料ではあるものの当時から岸家直系ではなく姻戚関係によって岸姓を名乗った岸良や岸連山らの評価が高かった事がうかがわれた。さて,彼らの残した作品からも,画系と血縁の違いがうかがわれる。岸駒の創始した肥痩のある線描は岸岱,岸良の人物画には見られるが,岸連山の人物画には余り強く見られない。しかし,同時代に活動していた岸慶や岸札,岸恭の人物画を見ると岸駒創始の線描でもって人物を描いており,画風も墨守していた感が強くうかがえる。花鳥画においては岸岱や岸良の世代から,淡彩で身近な事物を描く手法も取り入れており,四条派に近寄ったと評されるゆえんであるが,岸連山はさらに余白を多く取り,線よりも色彩の面的な広がりを重視した表現をしている一方,同世代の岸札は強い調子の墨線を多用した岸駒に由来した表現を取ることが多く,その目指している表現方法がかなり異なることがうかがえた。このことは,岸家宗家は時代の好みとは別に岸駒創始の描法を伝えていくことを主眼とし,一方婚姻によって岸一族とされた画家は,当時京都画壇を席巻していた四条派風の描法を多用することによって享受者の意向に沿った作品を提供することと位置づけられていたのではないかとも推測される。これは岸派宗家が代々宮中の官職に就き受領名を名乗り続け,家格を保とうとしていたこ232

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