鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
244/763

ととも無縁ではないのではなかろうか。江戸時代も後期になると,京都と各地域との交流が盛んになり各地の富裕な人々が京都で絵を学んだり,作品を持って帰ることが多くなった。従来,岸派とゆかりのある地域としては東海道随一の素封家として知られた植松家のある駿河の原が知られていたが,近年,各地域の博物館が地元の画家を掘り起こすに当たって,岸派と縁のあったことが明らかとなり,関連の資料が再発見されることが相次いでいる。管見の限りでは,美濃の三尾暁峰とその粉本類,駿河の庵原三山関係の資料,近江の山中東江と岸派粉本などである。今回特に注目したのが長野県小布施町一帯にある岸派の作品群と関連資料であり,本画はもとよりそれらの流入過程を示す資料も残っており,江戸時代における絵画作品のやりとりをうかがし3知ることができる貴重な資料と言うことができるのではないかと考えた。葛飾北斎の来遊で知られる小布施町であるが,江戸時代後期においては土地の素封家・高井鴻山が文化的な質を高めるように努め,彼が京都や江戸から取り寄せた書画が数多く残っている地域である。管見の限りでは,本画では岸駒,岸岱,岸良などの優れた作品を見ることができ,さらに高井鴻山の手控えである『重修堂主人手控帖』(注10)があり,そこにはいつ,いくらで,どのような作品を入手し,どこへ頒けたかなどが記される。鴻山の絵の師でもあった岸駒及びその門流の作品も多く入手した様子が知られる。特に入手金額が明示されており,同時代の他の画家の価格とそう大きく違っておらず,従来伝説的に語り継がれてきた岸駒をはじめとする岸家の画料の高さは,あくまでも逸話の上であることが確認できた。岸派作品の地方流入については勿論のことであるが,岸岱の作品についても約50点ほどの記述が見られ,岸派二代目として重要な位置にありながらも従来余り語られることのなかった岸岱に関する有用な資料といえ,今後詳細な検討を加える必要があると考える。おわりに本調査研究は,今まで等閑視されてきた岸派にかかわる資料をできるだけ集成し,19世紀京都画壇の状況を把握するために役立てることを目的としたため,かなり総花4 地方への広がり-233-

元のページ  ../index.html#244

このブックを見る