が例外的に入っている作品〔図2〕には,構図,配色から判断して,そのような自然らしさ,現実らしさがやや希薄に感じられる。実際,この絵は現実の情景を目の前にして描かれたのではないに違いない。なぜなら,当時ルモワンはガンピエ諸島に赴任していたからだ。つまり,この作品は,ルモワンがガンピエでタヒチを思い出しながら制作したものということになる。1901-6年までのタヒチ滞在時に,ルモワンは当然,絵にあるような光景に親しんでいたに違いない。現在でも,パペーテ市街から離れた村を訪れると似たような光景を見かけることがある。19世紀のタヒチに流布していた,タヒチを描いた絵〔図3〕にあるようなイメージにも親しんでいただろう。だがそれ以上に,この作品にはゴーガンの〈パラウ・パラウ(お喋り)〉〔図4〕の構図,主題を研究した形跡がうかがえる。強調されている奥行感,踊っている女,立っている女と地べたに座っている女たちとの対比,遠景の小屋,寝そべっている犬,座って楽器を奏でる女といったディテールを見ると,この作品はまるで〈パラウ・パラウ〉のヴアリアントと言ってもよいほど類似している。また,腰に手を当てて踊るタヒチ女というモチーフといえば,ゴーガンの〈ウパ・ウパ(歓喜の炎)} (W433)や〈マタ・ムア(昔)} (W467)を想起させる。これら3点のゴーガン作品はすべて,1895年2月18日の売り立て(於オテル・ドゥルオー)に出品されていた。ルモワンは,売り立て前日の一般公開のときに作品を見ていたのかもしれない。多岐にわたる主題を手掛けたルモワンが,タヒチを追憶しながら描いた作品をタヒチ版田園画にしたのはなぜか。おそらく彼は,ゴーガンと同じく,歌ったり,踊ったり,地べたに座ってお喋りしたりすることは,タヒチ人の生活の中で特徴的かつ非常に重要な習慣と捉えていたのだろう。タヒチに来てまもなく,ゴーガンは妻宛の手紙でこう語っている。「彼らを野蛮人と呼べるだろうか。彼らは歌い,決して盗みをしないので私の家の戸も決して閉まっていないし,人殺しもしないのだ」(注14)。また,『ノア・ノア』第二稿には,そんな牧歌的とも怠惰で憾いともいえる島の生活を描写した次のような記述がある。「ブウラオの木の小屋の近くから,森が始まる。冷気漂うなか,男女,すなわちタネとヴァヒネたちは,そこでグループをなして散らばっている。忙しく働いているグループもあれば,すでに休んで飲んだり喋ったりして,笑いが飛び、かっているところもある。(中略)岸では,水浴び、にきた姉と妹が横になっている。思わず知らず扇情的な姿勢となり,昨日の恋愛,明日の愛のもくろみを喋っている。-14 -
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