⑮ 富本憲吉の模様に関する未刊行資料の基礎的研究一一大和安堵村時代の風景模様を中心として一一研究者:奈良県立美術館館長宮崎隆旨はじめに「模様から模様を造るべからず」この句のためにわれは暑き日,寒き夕暮れ,大和川のほとりを,東に西に歩みつかれたるを記憶す(注1)。感動的なこの一文が象徴するように,日本の近代陶芸の確立に最も重要な位置を占める富本憲吉の陶芸の真髄は,豊かな感性に裏付けされた格調高い模様の創作にあると言えよう(注2)。その模様の骨子をなしているのは,普通は目に留められることもない庭の草花や路傍の雑草,古い件まいを留めるさりげない田園景観などである。しかし,彼の繊細で豊かな感性はそれらの中に美を捉える。そして,膨大なスケッチの中から淘汰されて残ったごく一部の模様に対して,更に単純化を重ねて自身の模様として定着させた。しかしそれらの形成期には,同一の模様に異なった名称、をつけていることもあり,一方では同一の名称で複数の模様も見受けられるように,試行錯誤を経て定着していったことがうかがわれ,そのことは同時に,今日でも一部の陶磁器作品の名称に混乱をもたらしているのも事実である。富本憲吉の陶芸活動はその居住地によって,大正年間の大和・安堵村(現安堵町)時代,昭和2年から21年までの東京・祖師谷時代,戦後の京都時代に大別され,各々の土地の環境に応じた特徴ある模様を創作しているが,生涯を通じての基流となっているのは郷里の安堵村時代に創ったものであり,中でもひときわ異彩を放っているのは,安堵村やその周辺の風景模様であろう。では,陶芸を始めてから約15年間に及ぶ富本憲吉の安堵村時代において,一体どれほどの風景模様が,いつ頃創り出されたのであろうか。そして,それらの中でどのような模様が実際に陶磁器に採用され,逆に活用されることなく埋没していったのであろうか。富本の模様観をうかがう上で重要な意味を持つと考えられるこれらの点について,まず手がかりになるのは,安堵村時代の模様の集大成として20部限定で自刊し,今日ではほとんど目にすることが出来ない『富本憲吉模様集.I.『富本憲吉岡器集第一冊』である。また,未刊のまま眠っている当時の数多くの模様図巻類(注3)もそ239
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