鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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(1)竹林月夜(三ツ倉と満月・竹薮に固まる、三ツの倉・竹林と倉・竹林月夜昼間之配布開始。第三冊…大正10年(1921)秋から大正14年(1925)12月までの聞に制作した模様50図を,第109番から第150番の台紙に貼附,昭和2年(1927)1月までに予約購入者に配布開始。各冊共に多少の異動はあるが,基本的には制作の古い順に配置したという(序文)。その後,大正2年2月には本書のダイジェスト版である一冊本の『富本憲吉模様集』が文化生活研究会から出版されたが,l図が異なっている以外は同内容である(注9)。また『富本憲吉陶器集第一冊』は模様集の姉妹編で,大正3年(1914)から昭和元年(1926)迄に制作した陶磁器62点を収録,昭和8年(1933)に模様集と同じく20部限定で自刊している。スケッチから模様へ付表は,富本憲吉の安堵村時代の風景模様(風景と人物,風景と鳥を含む)について,『富本憲吉模様集j,これまでにみた図巻類,現存する陶磁器作品,『富本憲吉陶器集第一冊J,そして若干の単独資料によって作成したものである。本表の物語るものは多く,また細部について説明を要するが,紙幅の制約があるので他の機会に譲り,以下,代表的な風景模様である「老樹J.「竹林月夜」−「大和川急雨」を取り上げて,スケッチの段階からどのようないきさつを経て陶磁器の模様として定着していったかを概観する。景)富本の窯の東方lOOm程の景観で富本の最も代表的な風景模様である。量産品にもこれを描くことが多く,描いた数はl万を越えるというのもあながち誇張ではあるまい。大正5年(1916)頃にリーチと共にスケッチし(注10),「私が風景を模様にした最初のもので(略),初めは三ツ倉と満月と云ふて居たのがいつとは無く簡単な此の名になって仕舞ふたJ(注11)と言う。確かに,一時中国に行っていたリーチは大正5年12月に再来日して富本の家に立ち寄っており,リーチもまた視角を異にした同じ場所の染付皿やエッチングを残し〔図8〕,更に翌大正6年の『美術J第l巻10号に流逸荘の富本夫妻陶器展覧会を取り上げてこの模様の飾皿を紹介しているので,大正5年末に成立したことは間違いあるまい。『富本憲吉模様集』では大正2年から大正8年夏までに-245-

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