(2) 老樹(鷹塚・大和国安堵村鷹塚・高塚・小堂と径)制作した模様を納めたとする第1冊のl番から50香までの中の36番にあげている〔図9〕。現存する陶磁器では大正10年の円陶板2点が最も早いが,『富本憲吉陶器集第一冊』にも収録するその中の一点〔図10〕は晩年まで続ける通常のもの〔図11〕と角度が異なり,視角を変えたスケッチも試みていたことが知られる。一方これらとは別に,同一場所で月のない昼間の景もスケッチされていた。前記した大正12年孟春の奥書のある『安堵村八景』に「竹薮に固まる、三ツの倉」と題して描かれていてそれ以前の制作が知られ,『富本憲吉模様集』では第3冊114に「竹林と倉」の名で取り上げられている〔図12〕。また陶磁器では『富本憲吉陶器集第一冊』に「風景jの名で染付の煎茶器が収録され,他にも数例の作品が見受けられる。更に竹林月夜の昼間の景にはもう一つの系統があった。上空に雲と三羽の飛鳥を配したもので,木版の原図らしい雑誌『白樺』第14号6月号(大正12年6月1日発行)の扉絵や,飛鳥の位置が少し異なる木版画〔図13〕がこの系統に属し,木版画には「竹林月夜昼間之景Jと墨書したものも見受けられ,版木〔図14〕も現存する。ただし,この系統の模様は陶磁器の作品にはほとんど採用されていない。通常の月に比べて速写の点で難点があったためであろうか。なお,その後この景観は新たに納屋が建てられて右側の竹薮は無くなり,左右のバランスが崩れたことを富本はしばしば嘆いているが,京都時代にはその新しい四倉の景観を「村落遠望jと呼び,これと従来の竹林月夜を組み合わせたものを「村落董夜」〔図15〕と名付けている。『安堵村八景』に「高塚又鷹塚と云ふ。高麗より奉りたる聖徳太子の白鷹を埋みたりとの惇説あり。樹は栴檀の老樹にして小堂に観音をまつる。夏は涼をとるによく,冬は群鴨に富む。」とみえる。富本の母屋の南方に位置し,地元では周知の目をひく巨木であったが〔図16〕,昭和25年のジェーン台風で倒れたといい,現在は観音堂のみがわずかに往時の面影を伝えている。富本がこれを最初にスケッチした正確な時期は定かでないがJ富本憲吉模様集』第l冊29番甲に「大和国安堵村鷹塚J〔図17〕の名で描かれ,収録番号が制作年次順を原則としているのであれば大正5年末の竹林月夜よりも早い可能性があろう。その後『富本憲吉模様集』第2冊107香乙には「老樹jと題して六角皿に描いている〔図18〕。両図を比較すると,前者が樹の上方に茂る葉も強調しているのに対して,後246-
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