(3) 大和川急雨(急雨・橋頭初夏之雨・小橋)例,『富本憲吉模様集』第3冊147「小堂と径j,『道五題巻』小堂と径〔図23〕。『富本憲吉模様撰集』(注12)に「(大和川で釣りをしていた)ある日の午後はげしい夕立が急にやって来て背後の小さい崖の様な狭い場所に身を屈めて雨をさけながら下流に此の風景を見た。何も持って居なかったのでマッチをつけて吹き消し,その木炭で巻煙草の箱の裏に記憶を助けるための署図を描いておいたものがこれである。Jと記し,富本の模様の創作に対する執念を示すものとして広く人口に脂突しているものである。大正13年6月に記した「窯辺雑記」(注13)にそれが「去年夏jのこととみえ,大正12年に創られたことが知られる。もっとも,ここではマッチのことはみえず,濡れながら下流の白い水煙をあげて過ぎていく雨を見ていたという。いずれにせよ,この急雨の光景は「千九百弐拾参年六月」に「橋頭初夏之雨」と記した水墨画に描かれているので(個人蔵)' 6月以前に創られたに違いない。そして,大正12年秋の奥書のある『自作陶器拾弐図Jに「大和川急雨」と記した飾査が描かれ,翌日年初夏制作の『新作陶器拾弐図』にも査の形は異なるが同じく「大和川急雨jと記した同図がみえ〔図24〕,また富本憲吉記念館にも1923年の年紀と「大和川急雨」と題した水墨画が蔵されているというので(注14),遅くとも大正12年秋頃からこの名称が定着していったようである。また『自作陶器拾弐図.I.『新作陶器拾弐図J共に査に模様として描かれているので,当時陶磁器の模様にも用いられた可能性がある。なお,大正13年初夏の『異本安堵村八景Jには,背景に遠山を加えて「急雨」と題している〔図25〕。ところで『富本憲吉模様集Jには,時期的には十分可能なはずであるのに,この大和川急雨は収録されていない。そして,同景で雨が無く雲の線を描いた「小橋」が第3冊117にみえ〔図26〕,大正12年かと推定されている6月3日付の野島康三宛書簡にも「大和川にて記憶より最近作Jと添え書きして描かれているという(注16)。すると,厳密にはいずれが先行するかは定かでないが,「大和川急雨Jと「小橋模様」は大正12年6月頃ほとんど同時に創り出されJ富本憲吉模様集jには「小橋」のみが選出されたようである。しかし,山本茂雄氏も指摘されているように(注17),その後も「大和川急雨」は水墨画や図巻類にはしばしば描かれているが〔図27〕,現存する陶磁器は大正12年以来「小橋jのみで〔図29〕,昭和4年信楽での土焼の量産品には「細流小橋」ゃ[細流小屋」の文字を添える〔図28〕。そして,陶磁器に「大和川急雨」が現れるのは管見では京都時代の昭和34年以後であり,以来晩年までおびただしい数に達す248
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