注(1)富本憲吉「製間余言」(『製陶余録』昭和15年昭森杜)。(2) 共にほとんど独学で陶芸の道に入り,以来終生の盟友として富本の陶芸を最もよ160枚が個人に蔵されていて,今回,個々のスケッチの現品を特定して当時の富本の模る〔図30〕。「大和川急雨」は大正12年から13年にかけての図巻類には頻繁に描かれながら,『富本憲吉模様集』にはそれまでの図巻類には取り上げられなかった「小橋Jが収録された理由は何であろうか。また昭和34年頃再び「大和川急雨」が問磁器に突然のように現れ,以後頻出する背景には何があるのであろうか。共に種々の理由が推察されるが想像の域を出ず,今は客観的な事実をあげるに止め後考をまつこととしたい。まとめに代えて本小研究の性格上,現時点で特にまとめる結論はないが,付表やこれまでにみた3例からも,富本の多くのスケッチの中で陶磁器の模様として採用したのは少例であり,また一つの模様が定着するまでに幾多の試行錯誤と曲折のあったことがよくうかがわれる。こうした富本のかたくななまでに自分自身の模様の創作にこだわるようになったのは,楽焼を始めて程ない大正2年の夏頃である。その苦悩は同年11月6日の南薫造宛書簡に生々しく記されている(注15)。ところで,富本はそれ以前のロンドン留学中に,ヴイクトリア・アンド・アルパート美術館の工芸品を中心に600枚に達するスケッチを行っていた(注16)。そして,「私の焼き物や図案が新風を聞いたのは,この時代のスケッチが大きな力になっていると思うが,そればかりではない。もしこの博物館を知らなかったら,私はおそらく工芸家になることはなかったと思う」と述懐している(注17)。現在そのスケッチの中の約様観のようなものをうかがってみようと試みたが,90年の聞の同館の展示品の変化と,あまりにも膨大な収蔵品の壁に阻まれて目的を達することが出来なかった。今後,安堵村時代の風景以外の模様にも研究の対象を拡げることと共に,この留学中のスケッチの分析もまた残された課題である。く知る一人バーナード・リーチも,「私には彼の作品を総じて,飾り付けや模様などより形が優れているというふうに説明することができない。模様には,より強-249-
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