に雪信作品が展示されたこともある(注5)。近年は女流画家の作品展や研究にもとりあげられている(注6)。美術とジェンダーを論考したパトリシア・フイスター氏は,雪信作品の中に占める小野小町や紫式部など女性像の比率の高さを雪信が女性であるがゆえの主題選択とし,主題に関する敬慕が窺われることを指摘している(注7)。作品自体については,歌仙絵画帖の「女房三十六人歌合」が大型図版本として刊行された(注8)。若杉準治氏は,その解説で歌仙絵としての特徴と寛文期の文化としての意義付けに論及しておられる。また,徳川美術館蔵「源氏物語画帖」について,同館の岩田美穂、氏が詞書筆者名の考証や絵と詞書の対照などについて詳しく論じている(注9)。大型図版の刊行とこれらの研究成果により,雪信作品についての比較検討が可能になってきた。1 伝記資料と活躍期・活動地まず,伝記資料から雪信の活躍期や活動地について考察しておく。雪信の生没年はまだ確定していない。『古画備考』では40才で天保2年(1831)4月29日に亡くなったとしているが,天保2年では活躍年代の寛文期と組踊がある(注10)。同書とほぼ同時期の嘉永2年(1849)に刊行された『武江年表』には天和2年(1682)4月29日に40才で狩野雪信が亡くなったことを記しており,嘉永のころには雪信の没年についてこのような説があったと考えられるが,その典拠は明らかでない。雪信の活躍期を知る資料としては,f古画備考』に引用された紅葉図の年紀銘が「寛文六年十月中旬清原氏女雪信筆」であり,寛文12年(1672)刊行の『排玉集』に,「雪信,探幽姪孫,清原氏妻,御雪」と見えることから,寛文期の活躍は確かであろう。同時代資料の『排玉集』の記載と『古画備考』所載の「昌運筆記」ゃ「白石蔵本狩野門人系図」を参照すると,雪信は探幽の妹,鍋と神足常庵の聞に生まれた国と,門人久隅守景との間に生まれた雪という女性で,探幽に絵を学び,同門の清原姓平野伊兵衛守清に嫁したということになる。「昌運筆記」には雪信の京都居住が記されているが,ほかにも京都での活躍を伝える資料がある。まず,天和2年(1682)に刊行された井原西鶴の『好色一代男Jには,延宝年間(1673〜1681)に京都島原の太夫薫が清原雪信に描かせた秋の野の絵に公家衆8人の寄合書による和歌を書いた賛を尽くした衣裳を着た話が出てくる。小説とはいえ,京都での華やかな活躍を窺わせるもので,「女房三十六人歌合J「源氏物語画帖」と同様に雪信の絵と公家寄合書の組み合わせが見られることが注目され268
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