鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
280/763

る。さらに雪信について詳しく伝える資料が儒学者伊藤仁斎の子梅宇の随筆『見聞談叢Jに見える伝聞である。梅宇は,雪信を6〜70年前の人物として紹介し,雪信と親交があり,その作品も所持していた伊藤仁斎の母(梅字の祖母)那倍が雪信本人から聞いた話を記した。そこには17,8才から法眼(狩野探幽と推測される)の元で絵を学び,同門の尼崎藩士の子弟との恋愛を答められて家出をして,その男子と別宅して,絵かきとして身を立てて後に繁盛したことなど,雪信の身の上が伝えられている(注11)。那倍は延宝元年(1673)に亡くなっているので,雪信が京都で親しく会っていたのはそれ以前のことである。那倍自身は,連歌師里村紹巴や豪商角倉了意の孫にあたる。寛文9年(1669)ごろに迎えた仁斎の妻は,尾形光琳・乾山のいとこにあたるなど,伊藤家は京都の有力町人や文化人・芸術家とのつながりが密接であった。このような伊藤家の女性との親交は雪信の京都での画家活動に重要な意味を持っていたことが推測される。元和・寛永期には後水尾院を中心とした文化サークルが,京都の上層町人・文化人を含めて形成されていたことは周知のことである(注12)。寛文期に至ってもこのようなサークルに接点を持つ人物との交流が,公家寄合書と雪信の絵の組合せを可能にした一因ではないだろうか。雪信の伝記資料については生没年も確定できず,同時代資料に乏しいものの,伝えられた資料からは,江戸の狩野家と離れて京都で人気絵師として活動する姿とその支持層・制作環境を推測できる。2 作品調査の概要雪信作品は相当数が伝存していると予測されるものの,まとまった数が紹介・研究されることはなかった。そこで,図録等に掲載されている作品・比較的点数がまとまって所蔵されている尼崎市教育委員会歴史博物館準備室所蔵品・個人収集家所蔵の作品について調査を行った。図録等掲載の作品については,そのほとんどを展覧会等で実見しているが,詳細な調査や写真撮影は実施していない。写真撮影等は,図録等に掲載されていない作品に重点を置いた。本稿末に載せた別表は,調査した主な作品のリストである。以下,文中でとりあげる作品名の後に[]で作品番号を示す。法量・所蔵・掲載図録等については別表を参照していただきたい。なお,別表にあげた雪信作品の落款は全て「清原氏女雪信」であり,印章のほとんどは「清原女」の朱文八角印で,画帖2点[9・13]に「清原」の朱文方印が用いられていた。落款の書体は同ーであるが,字形には若干の差異が認められる(注13)。「氏Jの第二画が縦に長細い-269-

元のページ  ../index.html#280

このブックを見る