鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ものは,文字全体が細く運筆に硬さが見られる〔図1〕。また,第二画が縦にのびすぎず第三画の位置が低いものは,運筆に流れがあってやや手慣れた印象を受ける〔図2〕。試みに前者をA,後者をBとして調査作品リストに字形による区別を示した。雪信作品のうち制作年代が寛文11年(1671)ごろと推定されている「女房三十六人歌合」[9] の落款や「源氏物語画帖」[13]の落款はAにあたる。「源氏物語画帖」よりも伸びやかに描かれた「聾火図」[12]の落款はBにあたる。さらに多くの作例を調査しないと結論は不可能だが,寛文11年ごろまでの作品とそれ以降の作品では落款の字形に変化が見られる可能性を指摘しておく。この調査の結果からは次のような傾向が見られる。形態や彩色等に注目すると,まず第一に扉風や襖などの大きな作品が少ないことがあげられる。第二に絹本作品が多い。第三に水墨画がほとんど見られず,上品でていねいな彩色を施した作品が多い。画題のジャンルに注目すると探幽以来江戸狩野派が手がけてきた画題のほとんどが含まれており,探幽の下,一通りの作品は学んで、いたことがわかる。これまでにも指摘されてきたように唐美人図・歌仙絵・源氏絵・物語絵が多い。また,観音図や弁財天図・文殊菩薩図には,仏教的主題であっても宗教性が薄く,美人図に近似する作品が多く見られる。3 歌仙絵の画風前章では調査から見た雪信作品の傾向を指摘したが,ここでは制作年代の推測できる作品として重要な「女房三十六人歌合」[9 ]に注目し,他の歌仙絵との比較を行う。この作品には堂上寄合書の筆者目録があり,すでに先学により,寛文10年(1670)4 月から翌日年(1671)5月の聞に和歌が染筆されたこと,寛文11年11月2日にこの画帖が拝領された時の覚書があることから,絵もほぼ同時の制作であることが推定された(注14)。この覚書に出てくる人名については,これまで言及がなく,拝領の経緯は不明とされていたが,『徳川実紀Jから新たに判明した点に触れておく。覚書中の「御台所jは徳川4代将軍家綱の正室浅宮顕子女王,「お梅殿・おかの殿Jは大奥の老女である(注15)。覚書は,画帖が御台所の意向により梅・岡野の記名で作成された添文とともに,大奥から届けられたことを示している。届け先の「村松中山」については不明であるが,拝領した人物は贈り主から考えて相当高い身分,例えば格の高い大名の妻女などであろう。推定された制作時期からあまり日を経ないで拝領されたことは,270

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