鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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贈り主自身が注文主である可能性の高さを示唆している。ところで,江戸の大名家からの注文に応じ京都で制作された歌仙絵に,どのようにして堂上公家寄合書が作られたのだろうか。寛永期の文化サロンでは,歌仙絵の注文に応じて寄合筆者のコーディネータ一役を果たす公家や高僧のような存在が指摘されているが(注16),寛文期に至ってもこのような状況は続いていたことが推測される。御台所の求めによる画帖は,京都で画家と寄合筆者を具体的に決定して調製されたと考えられる。雪信の参画は,その画技が認められるとともに,人脈などの面で京における画家活動の地盤を確保したことを示している。第1章で述べたように,伊藤家との親交など伝記資料もその裏付けとなるだろう。次に当作品の画風について検討し,さらに他の歌仙絵と比較していくことにする。画帖の見返し絵を土佐光起が描いている点から,光起と雪信の画風上の関連を指摘する見解がある(注17)。寛文6年(1666)から同8年(1668)ごろに制作されたと推定される光起本「女房三十六人歌合」(三井文庫蔵)には共通した姿態の歌仙絵が見出せるものの,雪信本の歌仙の姿態は,土佐派に限らず,粉本や先行作品に依拠している。しかし,顔貌の表現は土佐派と異なり,狩野探幽の寛文2年(1662)以降の作とされる「新三十六歌仙図J(東京国立博物館蔵),「百人一首手鑑」(東京国立博物館蔵)に近似する。細密画の装束も,土佐派の濃彩よりはやや軽快さを見せる。探幽の歌仙絵は土佐派の伝統的な細密図様をよく摂取しているものの,濃彩によるっくり絵よりは,やや軽妙で平明な画風を完成している。雪信の画帖中の歌仙絵も本質的には,探幽の様式にならっているといえる。歌仙の表情が画一的で装束の描写に硬さが見られる点は,色紙という小画面である点も一因と考えられるが,寛文11年ごろと推定される制作時には,粉本や先行作品の忠実な模倣に終始したことを示しているのではないだろうか。やや大きな画面の歌仙絵として,「小野小町図」[7]「柿本人麻自・小野小町・伊勢図」[8]から,同じ姿態の小野小町像〔図3・4〕をとりあげ,比較を試みる。「小野小町図」は若い女房姿・中年の女房姿・老いさらばえた乞食姿の三幅対で,小町の容色の衰えを視覚化した作品である。当作品では,右幅・中幅の年齢の異なる女房姿の小町像は,座像と立像,襲の色,額の化粧で描き分けられている。右幅の若い女房姿の小町像は,画帖中の小町像と同ーの姿態であるが,顔貌については観念的かっ静的な表現ながらも柔和で優美な表情が描き出されている。「柿本人麻呂・小野小-271-

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