鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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qL ⑫ ジョルジョ・デ・キリコと「メタフィジカ絵画jに関する研究研究者:大阪府立大学大学院人間文化学研究科博士後期課程はじめにジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)は「メタフィジカjという哲学用語で自らの芸術を語ることになるが,1911年に哲学者ニーチェ(1844-1900)の写真〔図1〕に似せて自画像〔図2〕を描き,ここに「1908年jと偽りの制作年を書きこんでいた。1908年は,ニーチェの自伝的著書『この人を見よ』の初版が刊行された年である。1908年ごろのデ・キリコは,ケンタウロスやセイレーン,プロメテウスといった神話上の半人半獣や巨人を荒々しくダイナミックに表現していたが,1909年を境に画風を一変させ,〈ある秋の午後の謎〉〔図3〕では静かな古代的情景を描いた。頭のない白い彫像と奥行きのない神殿風の建物が立つ広場に悲劇的な人物を配したその構図は,演劇の舞台のような様相を呈している。1912年の手稿「ある画家の膜想」によると,「ある澄んだ秋の午後」,フィレンツェのサンタ・クローチェ広場〔図4〕にいた病み上がりのデ・キリコは,「感覚もほとんど病的な状態jにあり,瞬間,見慣れていたはずの教会やダンテの彫像や噴水を「今初めて見ているのだという奇妙な印象を抱きJ,この絵を着想した(注1)。こうした体験に彼を導いたのもまた,ニーチェであったにちがいない。それは,『この人を見よ』の「血液と筋肉の極度の貧窮にもとづくと言える,すべてを甘美に,そしてかるやかに,霊的に感じ取る気持ちが,『曙光』を生み出した(注2)」という言説を想起させるからである。動的な神話画からメタフイジカ絵画の序章とも言うべき静的な広場の絵への転換はきわめて明白であり,そこにはニーチェを鍵とした芸術観の転倒が隠されているのだろうが,それについての明確な説明はいまだなされていない。本論は,メタフィジカ絵画の意味を問う手がかりとして,この転換の経緯を追った研究成果の一部である。「フ。ロメテウス」と「アリアドネーjデ・キリコは,ニーチェが「求道的な画家(注3)」と称賛したアルノルト・ベックリン(18271901)の絵画からさまざまなモティーフを借用した。デ・キリコがベックリンに魅了されはじめるのは1906年からのミュンヘン滞在中であったが,その契機のハHd市川直子

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