鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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言葉である(注13)。そして,デ・キリコは友人に対し,「わたしが自分の絵についてそれらが深いと言ったときあなたはたしかに最も愚かな芸術家ミケランジエロが描いたような,何かを超えたがっている(etwasilberwinden wollen)裸の人々がたくさんいる巨大な構図を考えましたね」と問いかける。その言い回しの典拠は,ヴァザーリが1568年に書いた『ミケランジエロ伝』にある。それによれば,ミケランジエロはシスティーナ礼拝堂の〈最後の審判〉を描いたとき,以前に描いた天井画「それさえもうち負かそうと欲し(volse vincere se stesso)」,結局,「自らも超えた(superos巴medesimo)」という(注14)。それゆえ,デ・キリコが「何かを超えたがっている」と言った「何か」とは「自己自身jと言い換えられよう。ヴァザーリは〈最後の審判〉の解説で,ダンテの『神曲J煉獄篇第十二歌から高慢の罪が罰せられる場面を描いた舗石についての言葉を引用したが,自らも超えようとするミケランジエロの高慢さは,煉獄篇第十一歌において先人を超えるジヨットやダンテ自身を想起させる。その意味で,デ・キリコは高慢なミケランジエロを[愚かな芸術家」と呼んだのだろうが,そのミケランジエロに比して,自らの「深さjを高慢にもこう語る。いいえ,親愛なる友よ,それはまったく別物なのです。わたしが理解したような,そしてニーチェが理解したような深さは,今まで追い求められてきたのとは別のところにあるのです。わたしの絵は小さいですが(サイズは50から70センチメートルです),それぞれがひとつの謎であり,あなたが他の絵には見つけられないような詩,気分,神秘をそれぞれがもっています(注15)。ここでデ・キリコがミケランジエロの巨大な構図と対置させるのは,自らの小さいながらも恐ろしく深い絵である。これらの絵は,サイズの記述から,ベックリンの影響が色濃い神話画ではなく,〈ある秋の午後の謎〉やその直前に描かれた〈神託の謎〉〔図10〕であろう。ミケランジエロを「愚かな芸術家jと呼んだ理由について,デ・キリコはガルツに再度宛てた翌1911年1月の手紙で,今や「新しい世界」を知った自分には「残酷で野卑すぎるように思える」からだと説明する。さらに彼は,『ツアラトゥストラJ第二部の「夜の歌」の言い回しを用いて,「別の泉から水を飲んで」いた自分の唇に「新しく特別な渇き」があらわれたと語りこの手紙をこう続ける。282

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