鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ダヴイデはおそらく超人ではないかとあなたがわたしに尋ねたとき,あなたが何を考えていたかわたしは知っています。これはわたしの以前の気持です。[…]わたしは新しい歌を聞きました,すると全世界が今や形を変えたようにわたしには見えます。秋の午後がやってきました,長い影,澄んだ空気,穏やかな空。一言で言えば,ツァラトゥストラがやってきたのです[…]。最も偉大な歌い手が到着し,彼は永劫回帰について語り,彼の歌は永遠の響きをもっています。新しい眼鏡で別の最も偉大な人々を眺めると,多くはひどく小さくて野卑に見え,悪臭までする者もいます。ミケランジエロは粗暴すぎます(注16)。ここでは,英雄ダヴイデがもはや超人ではないというデ・キリコの思考の転換が語られているが,その根拠もまたニーチェにある。ニーチェは『この人を見よ』で,自らが拒否した「英雄崇拝jを超人に認める人がいると嘆き,超人の例ならば,チェーザレ・ボルジアのような人間を探したほうがいいと言う(注17)。またミケランジエロを評価はするが,彼を超える者としてダ・ヴインチを設定するといった文章も,やはりニーチェに見られる(注18)。デ・キリコはこの転換をツアラトゥストラの訪れとして語り,『ツアラトゥストラ』の「至福の島々で」の情景を描写している(注19)。「季節は秋,空は清く澄み,時刻は午後jというニーチェの場面設定はそのまま,デ・キリコの〈ある秋の午後の謎〉へと受け継がれている。ここではさらに,ツァラトゥストラが「最も堅い,最も醜い石」のなかに眠る像すなわち人聞を彫刻する者として自らを語る。「粗く,堅い石」はミケランジエロの詩(Girardi,152)の用語であり,ニーチェを語る文脈でミケランジエロをも語り出したデ・キリコはこうした言い回しの伝統を悟っていたのだろう。そして,ニーチェはツアラトゥストラがこの像を完成させようと欲する理由を,「超人の美が影として[…]やって来た」からだとし,その影はデ・キリコが描く広場において重要なモティーフとなっている。こうして,ニーチェ的な「新しい歌jを聞いたデ・キリコの静かな絵は,たしかにミケランジエロのダイナミックな構図とは対照的なものとなった。この「新しい歌」には,のちの手稿においても言及されている。そこでデ・キリコは,ニーチェの『曙光』から簸言182番「ある人のことを,最も深い敬意をもって,『それはひとつの性格である!』と言う人がいる。ーそうなのだ!無教養な論理,もっとも洞察力のない者-283-

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