鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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7王(1) Giorgio de Chirico, L’'Art metaphysique, Textes reunis et present己spar Giovanni (2) ニーチェ,手塚富雄訳,『この人を見よJ,岩波書店,1969年,18頁。(3) ニーチェ,原佑/吉沢伝三郎訳,『生成の無垢(下)j,筑摩書房,1994年,624頁。(4) Alfred Julius Meier-Graefe, Der Fall Bock/in und die Lei問vonden Einheiten, Ver-(5) 吉城寺尚子,「芸術誌『パン』の誕生,展開,終息j,「テキストの構成一一創刊か(6) ニーチェ,信太正三訳,『悦ばしき知識J,筑摩書房,1993年,316頁。(9) ニーチェ,前掲書(『この人を見よ』), 155頁。(10) ニーチェ,信太正三訳,『善悪の彼岸J,筑摩書房,1993年,346頁0(11) ニーチェ,前掲書(『この人を見よj),156頁。(7) De Chirico (Lista), op. cit. , p. 84. (8) ニーチェ,秋山英夫訳,『悲劇の誕生J,岩波書店,1966年,36頁。どこに典拠があるのだろうか。ニーチェとの関連からすれば,その典拠のーっとして,舞台芸術の革新家エドワード・ゴードン・クレイグ(1872-1966)〔図11〕の作品が挙げられよう。デ・キリコがこの舞台芸術家に言及した資料は現在のところ確認されていないが,その単純化された建築的構図を比較するに,ここに影響関係があることは否めない(注24)。とりわけ,クレイグの[超人形(Ubermarionette)」という俳優観にはニーチェの超人の影響が指摘できる(注25)。クレイグとデ・キリコとを結びつけるのもまたニーチェであり,その接点は先に触れたマイヤー=グレーフェの『ベックリンの場合と統一の理論』に求められる。ここでマイヤー=グレーフェはクレイグに言及し,その文脈で「価値の転倒(Umw詰lzungder W erte) Jについて語った(注26)。ベツクリンに倣っていたデ・キリコは,おそらくこの本を読むことでベックリンを超克し,さらに1908年刊行の『この人を見よ』を通じて彼独自の画風を見いだしはじめたと考えられよう。Lista, L’邑chopp巴,1994,pp.85-86.なお,〔図4〕のダンテ像は,現在,教会の左入口近くに移されている。lag von Julius Hoffmann, 1905, p. 270. ら終刊まで」,『「パン」の版画J,石橋財団ブリヂストン美術館,1996年,732頁を参照。-285-

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