鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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つ山るまでの時間はどの位必要なのであろうか。明治という時代は,「美術jに限らず,それまでになかった様々な新しい言葉が登場する(注5)。意味も分からずに新しい気分を味わうために使われることもあったと想像するが,文学作家が作品中に言葉を使うのは,もう少し慎重であったと思われる。次々と登場する新しい言葉に日々対応し,使えるようになるまでの時間は少なからず必要であると思う。例えば「美術」ーっとっても辞書に掲載されるまでには16年ほどの月日が必要で、あった。明治になっても大衆に支持される文学は江戸以来の戯作文学であった。新しい時代になったからといって,すぐには文学も新しいスタイルにはならなかった。江戸文学を引き継いだ戯作者たちは戯作文学のスタイルをそのまま踏襲しながら,開化期の新風俗を好奇的に描く,それまでの滑稽本にあるような作品を書いていた。その代表ともいえる偲名垣魯文(1829〜1894)が明治3年(1870)から書き出した『高園航海西洋道中膝栗毛』は,十返舎一九の『東海道中膝栗毛Jの設定を東海道から世界旅行へと変え,主人公は弥次郎兵衛と喜多(北)八の孫で同名,同気質の二人が珍道中を繰り広げる話である。蝦名垣魯文は,福沢諭吉の『西洋事情J(1866)や『世界園尽』(1869)を参考にしながら二人を旅させた。全十五編のうち,マルタ島へ行く十一編までが俄名垣魯文の作であり,十二編から十五編は同じく戯作者の総生寛(1841〜1894)の作である。十二編以降はジブラルタルからイギリスの港町に入りロンドンで万国博覧会の見物をする話である。十五編が刊行されるのは1876年(明治9)である。明治9年以前の万国博覧会は1851年,ロンドンにおいて世界初の万国博覧会が開催され,その後,1862年ロンドンで第二回万国博覧会,1867年パリそして1873年に前述の「美術J表記の登場するウィーンでの開催である。『西洋道中膝栗毛』十三編上には「時に弥次さん漸の事で今日は英吉利の地へ着いたから博覧曾に出かけたら面白いことがいくらも有るだろうノウJ(注6)と,喜多八が弥次に話していることからも,ロンドンでは博覧会という図式が総生寛の中にはあったのであろうか。「美術」という言葉は博覧会を契機に登場するのだが,『西洋道中膝栗毛』の博覧会の描写の中には「美術jという語は出てこない。「美術」という語は登場しないが,弥次,喜多の通訳をしていた通次郎が異人から博覧会の番附をもらい,二人に翻訳しながら聞かせる場面ではヨーロッパの油絵に関する話がある。しかし,それが「美術Jであるか「芸術」であるか等という話はない(注7)。明治15年(1882)10月にフェノロサが『美術異説』を刊行する(注8)。その少し前

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