鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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説神髄』として,明治18年(1885)9月から翌年4月までの聞に分冊にして刊行した。「小説jは従来の物語などと異なり,「西洋の那ベルJ(注10)であり,現代の私たちが使う「芸術」の一つの重要な要素であることを述べ,さらには人情,世態の写実が「小説の主眼」であることを述べている。小説総論小説の美術たる由を明らめまくせパまづ美術の何たるをパ知らざる可らずさハあれ美術の何たる明らめまくほりせパ世の謬説を排斥して美術の本義を定むるをパまづ第一に必要なりとす美術に関する議論のごときハ古今にさまざまありといへども総じて未定未完にして本義とみるべきものハ稀なり…(中略)…世に美術と称するものーにして足らずかりに類別してことなすべし日く有形の美術日く無形の美術これなり所謂有形の美術ハ絵画彫刻厳木繍織銅器建築園冶等をいひ所謂無形の美術ハ音楽詩歌戯曲の類をいふ市して路舞演劇のたぐひハこの二種を質を併せてもて心目を娯ましむ−(略)坪内遺遥「小説総論」『小説神髄』ここで坪内遣遥は「美術」の範囲を述べている。これは現代でいう芸術の意味範囲である。つまり,ここでは「美術jは主として視覚芸術のみには限定されず,音楽そして「小説jも入れようとしているのである。しかし坪内遁遥の論じる主体が「小説」にあったからとはいえ,ここまで「美術Jの意味あるいは範囲をいきなり冒頭において,声高に述べる事情はなんであったか。坪内遣遥が述べている通り,「美術の本義」がはっきりとしていないことへの表れなのであろうか。「美術Jには目的があるとする「謬説jがまかり通っていることに対する反論であろうか。ベイン(1818〜1902)の著作から学びとった(注11)芸術論とフェノロサなどの先行する「美術」論との違いによる反論なのであろうか。「美術jに目的があるのかあるいは目的ではなく偶然であるのか。いずれにしても明治18〜19年のころは,文学の世界では「美術jの意味を視覚芸術以外のものを含んで考えている。同じ頃肖遥は『小説神髄Jで展開した理論の実践である『一讃三歎嘗世書生気質』を刊行する。遁遥は文学作品の執筆の前に,まず理論を示しておいて後に具体的に作品の中で実践する方法を取る。『一讃三歎嘗世書生気質』の「はしがきjや本文中に表れる「美術Jは,『小説神髄』の「美術」と同じ意味と考えられる。292

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