ハ同U勺J明治21年(1888)に「美術」がはじめて辞書に出る。今まで見てきた「美術Jの意味から考え,この時点での「美術」には音楽や詩,小説なども含まれ,そのように辞書に掲載されるのである。明治22年(1889)に,東京美術学校が開校する。ここで教えられるのは周知の通り,視覚芸術の実技を中心としたものであり,詩や小説,舞踏などではなかった。学校名に用いられている「美術Jは当時一般に使われるよりも,より限定した意味で使われている。明治21,22年を言葉の意味の変遷における過渡期ととらえるならば,言葉の使用者によって言葉の持つ意味が広くも狭くもなっていくのは自然のことであろう。文学作品では,明治26年(1893)5月『譲責新聞』に掲載された川上眉山(1869〜1908)『賎機Jをあげる。眉山の代表作ともいえる『書記官』(1895)は,社会に対する鋭い目と「観念小説jと言われるほど露骨に思想、が表れたものである。眉山の作品の中で『賎機』は,露骨といえる程の思想の表明を感じさせず,むしろ文章の美しさが際立つている。『賎機』は,利根川上流域の別荘の番小屋に暮らす若者と近所の別荘に東京から来た美しい女性との出会いと別れ,そして意外な再会を書いたものである。女性は,自分の別荘の番小屋の主人に画帖を託し,若者の前から姿を消す。再会はするものの,あまりの身分のちがいから姉弟のような付き合いならばと言われ若者は落胆する。ある日,上野の博覧会場の「美術館」でその女性によく似た女性が描かれた無名作家の絵がかかる。女性はその絵を見て,番小屋の青年を思い出す。二十章から成る話の十九章の最後に「美術」が表れる。さては輿作は槍の道に入りけるか。我に見せんとて此槍をものしけるか。美術を撰ぴしとは思掛けぬ事,輿作はどれほど心高くなりしか。天地を足下に無冠の王とならんとは,再び槍を振向き見たり。目は溶けんばかりに思ひぬ。ここで使われる「美術jは,視覚芸術に限定した意味であろうか。『賎機Jに登場するのは絵画だけである。ここでは「美術jは絵画を中心とする限定したものと考えていいと思う。東京に「美術j学校が開校して4年目になり,「美術j学校で教えていることが「美術」であるという認識が少なくとも眉山にはあったであろう。またこの作品が新聞に発表されたことを考えると,限定した意味で「美術」を使用しでも読者に通じるという新聞社側の認識もあったと推測できる。
元のページ ../index.html#304