3 「美術」観『賎機』では,別荘の番人であり無学文盲の青年を,上流階級の女性が相手にせずに体よく断る。別荘の番人が「美術」をやるというのは,この女性にとってよほど意外な人生選択とうつったのであろう。意外というより,広い意味での「美術」も限定した意味であっても「美術」や「芸術jは,ある程度の階級層にいる人だけが作り手になるものだという意識がこの女性にはあったと思われる。つまり,作中の上流階級の女性の姿を借りてはいるが,これは明治26年当時の一般的な考えだったといえないか。文学作品に見る「美術Jの用いられ方を見渡すと,ある時期に一斉に意味の変遷が行われるのではなく,おそらく現在でも詩や音楽,演劇,舞踏などを含めた意味で「美術」という語を使う人がいるかもしれないほど,意味の変遷はある所では早く行われ,別の所ではゆっくりと行われている。文学作品に表れた「美術」を通してみる「美術」観をみていくと,「美術」がある一面で制度化されていく過程に,人々の「美術j観が応じていく部分を無視することはできない。それは万国博覧会であったり,囲内の博覧会や美術館や博物館の登場,美術学校や雑誌などである。具体的に目に見える形で成果が表れるものに「美術」がくっ付くと,言葉の意味はその施設や社会的装置のもつ内容にヲlっ張られていく。東京美術学校において正規の授業で教えているものは間違いなく「美術」であろう,とする考え方の存在は否定できない。「美術jという言葉そのものが開化期の新風俗の一つぐらいに思われていたことは,蝦名垣魯文や総生寛の文章から推測できる。それまでの江戸時代にも人々の目の前には「美術jや「芸術」は存在していたが,総称として呼べる名称がなかったのである。総称は,それまで見たこともない万国博覧会というものと一緒に登場するのである。はじめのうちは,「美術」も見たこともないものと非常に近い場所で認識されたとしても仕方がないと思える。内容としては元来からあったものであるにも関わらず,それに気づく間もなく内容にも新しいものが入ってくる。油絵や写真,歌舞伎とは異なる演劇,和歌や漢詩とは異なる詩など,総称が新たに付いただけでなく内容も新しいものが追加されるのである。一般享受者としては,内容の追加は日常的に次々と行われることであろうが,作る側は旧態依然、とした古臭いものに思える今までのものや方法に満足せずに,欧米のもの,新しいものの実践と紹介に一生懸命である。『新体詩抄J『小説神髄』などに見られるように,自分たちがやっている事を「美術」の範曙に入れ294
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