鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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注(1) 惣郷正明,飛田良文編『明治のことば辞典』東京堂出版,1986年(3) 前掲書2'146〜149頁(4) 前掲書1(5)前掲書1の凡例によると,明治時代に造語されたり,意味が変化したり,ゆれて(6) 引用についてはふりがなをすべて省略した。以下同様である。(8) フェノロサ,大森惟中訳『美術異説』龍池会,1882年(9)外山正一,矢田部良吉,井上哲次郎「凡例」『新体詩抄初編』丸屋善七,1884(11)関良一『迫遥・鴎外考証と試論』有精堂,1971年ることに対し,情熱をもっているようにも思える。つまり「美術」の範轄に入ることができるということは,社会的な身分や地位を得ることと同義であった可能性がある。「美術jは,それ自体が社会的な地位をもつものと認識され,『賎機』の青年のように社会的な地位のない人が「美術」をやることに対して驚きが生じるのである。いつ,どんな経緯で社会的地位をもつようになったのかは,今後資料とともに検証していきたい。今回,鹿島美術財団からの助成を受けて資料を収集し,調査をしたが,さらに今後調査を続けなければならない課題がある。継続して明治の文学資料の収集は続けるが,文学作品中の具体的な美術作品の調査や分類,作家と「美術」についての関係,個々の文学作品の読者層や数の調査等を引き続き行う予定である。資料に基づく,明治の人々の「美術」観を考察し,今後はさらに明らかにしたいと考える。(2) 北津憲昭『眼の神殿』美術出版社,1989年,140〜145頁いる語など1341語を収録,とある。(7)七杉子総生寛撰『西洋道中膝栗毛』十三編下年,参考文献欄参照同坪内遁遥『小説神髄』松月堂,1885〜1886年4 今後の課題-295-

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